1932年のロス五輪、男子100m決勝に残った吉岡隆徳 神経を鋭敏にする訓練とは(小林信也)

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神経を鋭敏にする訓練

 決勝を走る吉岡を複雑かつ眩しい思いで見つめるライバルがいた。

 佐々木吉蔵。実は吉岡は前年に腎結石を患い、数カ月もの療養生活を送った。最終選考会のひと月前まで練習さえできなかった吉岡を熱心に激励し支えたのが同じ東京高等師範(現筑波大)の佐々木だった。佐々木も憧れの吉岡とともにロス五輪代表に選ばれる。ところが今度は佐々木が右足首を負傷して五輪のレースに出られなくなった。

 あまり知られていないが、日本はロス五輪の400メートルリレーで決勝進出を果たし、5位に入賞している。

 優勝は40秒1の世界新記録でアメリカ。2位ドイツ40秒9。だが以下は大接戦だった。3位イタリア41秒2、4位カナダ41秒3、5位日本41秒3、6位イギリス41秒4。

(せめてリレーに自分が出場できていたら)

 佐々木はロスの空の下で地団太を踏んだ。

 吉岡は4年後のベルリン大会を目指し、挑戦を続けた。スタートに一層磨きをかけた。NHKの取材に答え、吉岡はこう語っている。

「ドンが鳴ってスタートする勘と動作が一致していた。神経を鋭敏にする訓練は、私は電話の音が鳴ればすぐその方向に体を動かす癖があります。信号が赤から青に変わればすぐ歩き出す」

 同時に、後半の失速を何としても抑える技術が必要だった。

「ロスでは最後に身体が浮いてしまった。身体の軽さをカバーする技術が必要だ」

 吉岡は考えた。試行錯誤の末、思いついたのが流線型走法だった。風の抵抗を減らし、スリップストリームのような真空状態に入り込む感覚。3年後の35年、ついに吉岡は世界タイ記録の10秒3をマークする。

 だが、金メダルさえ期待された翌年のベルリン五輪は2次予選敗退。悲観した吉岡は帰国の船上からマラッカ海峡に身を投げようとした。この時、吉岡を助けたのがまた佐々木だった。

夢は後輩たちに

 吉岡と東京オリンピックは浅からぬ因縁で結ばれている。死さえ選ぼうとした吉岡が、微かな希望の光として見据えたのは40年の東京オリンピックだった。しかし、日中戦争の激化と軍部の強い意向で返上に追い込まれる。吉岡は引退し、メダルの夢は自ら指導する後輩たちに託した。

 64年に実現した東京オリンピック。日本には男女それぞれ1名、メダルを期待されるスプリンターがいた。男子100メートルで10秒1、吉岡の記録を更新した飯島秀雄と女子80メートルハードルの依田郁子。いずれも吉岡が指導する選手だった。飯島は準決勝敗退。この時スターターを務めたのはあの佐々木だった。依田は決勝進出を果たしたが5位にとどまった。

 今年6月6日、山縣亮太が9秒95の日本新記録をマーク。日本で4人目の9秒台スプリンターとなった。100メートルそして400メートルリレー、メダル獲得の期待は高まっている。この活況は、吉岡、佐々木ら幾多のスプリンターたちが傾けた情熱の先にあるものだ。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2021年7月1日号掲載

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