今ではありえない“プロ野球酒豪列伝” 「元祖あぶさん」は二日酔いでスーパーキャッチ

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 現役のプロ野球選手で酒豪といえば、長野久義(広島)、中田翔(日本ハム)らの名前が挙がる。ひと昔前なら、金本知憲(広島→阪神)や下柳剛(ダイエー→日本ハム→阪神→楽天)も豪快な飲みっぷりで知られたが、彼らが漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武のように酒を飲んで打席に入ったり、二日酔いでマウンドに上がるイメージは、さすがにない。

 だが、かつては主戦投手をもじった“酒仙投手”が存在し、「あぶさん」のモデルになった“酒力打者”もいた。そんな球史に残る“伝説の酒豪”たちを紹介する。

飲み屋直行で先乗りNG

 酒仙投手の呼称は、職業野球時代の大阪タイガースのエース・西村幸生が元祖だが、1960年代にこの名をほしいままにしたのが、石戸四六である。

 1961年9月、ヤクルトの前身・国鉄と契約した直後、「契約金がドカンと入ったので」と、なんと、有楽町の球団事務所から郷里の秋田県大館市までタクシーで帰った。タクシー代3万円に加え、温泉宿の宿泊代、飲食代なども合わせて、合計5万円以上。大卒初任給が1万5000円に届くかどうかという時代に、なんとも豪快な話だ。

 石戸は試合が終わると、ステテコ姿で日本酒を湯のみ茶碗で飲むのを常とした無類の酒好きで、「一升や二升はいけた」という。ロードで先発させようと先乗りさせると、これ幸いと飲み屋に直行してしまうため、石戸に限り先乗りはNGになった。

 しかし、ひとたびマウンドに上がると、横手からの重いシュートと度胸の良さを武器に、68年に金田正一以来球団史上2人目の20勝を記録するなど、9年間で70勝を挙げた。

 サンケイ時代の65年8月7日の大洋戦では、被安打1安打の無四球、打者27人の準完全試合。翌66年8月28日の巨人戦では、王貞治に3安打を許しただけの3安打完封で、“王以外ノーヒットノーラン”の珍記録もつくっている。だが、過度の飲酒から肝機能障害と慢性胃炎を併発し、29歳の若さで引退となった。

 78年、ヤクルトが球団創設以来初の日本一を達成すると、石戸も祝賀会に招かれた。その日のうちに秋田に帰る予定だったのに、「列車が満席で取れない」とボヤくと、周囲から「タクシーで帰ればいいじゃないか」の声が上がった。

 すると、石戸は「いや、もうあんなバカな真似はできませんよ。もう無駄なお金は使う気になりませんよ」と照れながら答えたという。

吐き気をこらえながら激走

 大谷翔平(エンゼルス)以前の投打二刀流、かつ「あぶさん」のモデルとしても知られるのが、永淵洋三(近鉄→日本ハム)だ。

 社会人時代の65年に西鉄(現西武)の入団テストを受けたが、「身長(168センチ)が低い」という理由で不合格。ヤケ酒を飲み過ぎ、月給3万円に対し、30万円の借金をつくってしまう。契約金で返済しようと、知人の伝手で近鉄に売り込み、ドラフト2位で入団した。

 1年目の68年は、代打で登場したあとにリリーフで登板するなど、二刀流で活躍したが、野手一本になった翌69年に打率.333で首位打者になった。二日酔いのまま出場した試合もあり、同年5月6日の東映戦では、2対2の5回に中堅フェンスにワンバウンドで当たるランニングホームランを記録したが、吐き気をこらえながらの激走で、「三塁を回ったところで、足がもつれてしまってね」と青息吐息だった。

 また、71年6月3日のロッテ戦ではこんなエピソードも残している。5対4の延長10回2死一、二塁のピンチに、アルト・ロペスのあわや逆転サヨナラ弾という右中間フェンス際への猛ライナーを、中堅手がグラブに当てて、バレーボールのようにトスを上げてしまった。その直後、永淵がタイミング良く、落ちてくるボールをスーパーキャッチ。実は、二日酔いで全力疾走できず、ゆっくり走ったことが幸いしたという。

 その一方で、70年のオールスターでは、二日酔いがきつく、「下痢」と取り繕って第2戦を欠場。いかにも“元祖あぶさん”らしい。

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