角盈男、遠山奨志…日本球界を彩った“いぶし銀”のワンポイント投手列伝

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 日本球界では、それは「一人一殺」と物騒な言葉で表現されることもある――。

 米球界では、昨季から試合時間の短縮を目的とする新ルール「スリーバッターミニマム」が採用された。先発もリリーフも最低3人の打者と対戦、もしくは、イニングの終わりまで投げなければ交代できないという、イニング間のワンポイントを禁止するルールだ。

 これに対して、日本球界では、ワンポイントの禁止に反対する声が多いことなどから、今季の導入は見送られた。改めて日本におけるワンポイントの重要さが浮き彫りになった形だ。そんな球界を彩った“ワンポイントリリーフ”の歴史を振り返ってみたい。

“王貞治キラー”の異名

 1960年代にワンポイントリリーフを多用して、元祖的存在といわれるのが、“魔術師”三原脩監督だ。大洋監督時代、エース・秋山登に三塁を守らせて、ワンポイントを送ったり、“王貞治キラー”の異名をとった平岡一郎を重用。近鉄監督時代にも、“元祖二刀流”永淵洋三をワンポイントで使った。

 同じ頃、日本人初のメジャーリーガーになった村上雅則も、日本以上に左対左、右対右の考え方がはっきりしていた野球の本場でワンポイントを経験し、「2ストライクと追い込んでから、内角シュートで詰まらせる」という左打者の料理法を会得している。

 ところが、村上の南海復帰後、正捕手だった野村克也は、張本勲(東映)に対し、追い込んでから外角のスライダーとカーブを村上に要求したため、レフトに流し打ちの安打を3本も打たれた。「“絶対違いますよ”って、マウンドで(野村と)口喧嘩になりました」と、村上は話している。

 阪神監督時代、遠山奨志にシュートを覚えさせて、ワンポイントリリーフで起用し、巨人の松井秀喜封じに活用した野村も、現役当時は左打者対策で試行錯誤を重ねていたことがわかる。遠山の活躍については、後半部分で改めて触れたい。

 パ・リーグでは、永射保が西武草創期に“最強の左キラー”として活躍している。主にリリーフとして79年から3年連続50試合以上に登板。左腕の横手投げだった永射の球は、左打者から見て、「背中からボールが来る感覚」とあり、当時パ・リーグを代表する強打者だった、リー(ロッテ)、ソレイタ(日本ハム)の両助っ人は、永射が大の苦手だった。リーがわざわざ右打席に立って左前タイムリーを放ったエピソードはよく知られ、ソレイタもプロ野球新記録の5打数連続本塁打がかかった打席で、“天敵”永射に三振に打ち取られている。

 さらに、西武の前期優勝がかかった82年6月23日の阪急戦では、左打者を並べた相手の裏をかいて、まさかの先発。「一人一人リリーフのつもりで丁寧に投げた」という永射は、6回まで2安打1失点に抑え、2日後の前期優勝につなげている。

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