170センチ未満の剛速球投手「山口高志」 プロ入りを拒否し、一度社会人になった理由とは(小林信也)

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「小さな剛速球投手」山口高志は1975年、プロ野球界に衝撃的に登場した。

 セ・パの人気格差が大きかったこの時代、山口が全国的な注目を浴びたのは秋の日本シリーズだった。

 セ・リーグを初めて制した広島カープと、6度目のシリーズ出場を果たした阪急ブレーブスの対決。第1戦と4戦が延長引き分けとなるシリーズを制したのは阪急だった。中でも、5試合に登板し、広島打線の前に立ちはだかった山口の剛速球にみな度肝を抜かれた。

 公称172センチ、「実際には169・9センチ」。肩幅や腰回りはがっちりしているが、プロ野球の投手の中で山口はとびきり小柄だった。それでいて滅法速い。高めに伸び上がる快速球を空振りする広島の打者たちの姿ばかりが印象に刻まれた。山口はシリーズ1勝2セーブ、胴上げ投手になり、新人ながら最優秀選手に選ばれた。

 実働4年で47勝、8年で50勝。その数字以上の衝撃を山口は球史に残した。

プロ入り拒否宣言

 誰もが知る存在になったのは25歳を迎えてからだが、山口は高校時代から頭角を現していた。

 神戸市立神港高2年春の兵庫県大会で、山口は育英高と東洋大姫路を相手に2試合連続ノーヒットノーランを記録している。3年の時には春夏とも甲子園に出場。高校時代からすでに山口はその存在を知らしめ、光を放っていた。ところが、プロ野球から指名はなかった。憧れの東京六大学から誘われることもなく、地元の関西大学に進学する。

 関大では、7度のリーグ優勝、大学選手権と神宮大会の優勝に貢献。通算46勝、年間最多記録の18勝、連続完封6、通算完封19など数々の記録を塗り替えた。しかし、山口はドラフト前に「プロ入り拒否」を宣言。松下電器への入社を選んだ。

「自信がなかったからやね」

 アドバイザリースタッフとしてほぼ毎日ユニフォーム姿で指導にあたる関大の野球場を訪ねると、そう言って笑った。現役時代と変わらない、精悍な眼差し。

 背が低かったからですか? 訊くと山口は「そう」とうなずいた。

「自分のボールが速いとは思っていなかった。プロでやれる自信もなかった」

 それでも社会人2年目でプロ入りを決意したのはなぜだったのか?

「仕事か野球か、このままでは中途半端になると思い始めたんです」

〈世界の松下〉の環境は恵まれすぎていた。午前中だけ人事部の仕事をし、午後から練習。大会前になれば合宿に出かけ、仕事を免除された。将来に不安も感じ、会社の仲間たちに申し訳ない気がした。どちらも中途半端になるのではないか。そんな葛藤から、プロ野球での勝負を決めた。

 阪急の1位指名を受けて入団。春先のキャンプで早くも自信が揺らいだ。

「ブルペンに入ると、山田久志さん、足立光宏さん、みんな変化球が凄かった。プロ野球で生き抜くには変化球だ、投球術が大事なんだ、そう感じたんです。私はストレートとカーブしか投げられませんでした」

 強烈な焦り、劣等感に山口は苛まれた。

「スライダー、シュート、フォーク、いろいろ試しました。でも、変化球を多めに練習しすぎたせいか、真っすぐの走りが悪くなって」

 リリーフで出た初登板で打たれ、2試合目の近鉄戦ではカーブを土井正博にホームランされた。すっかり自信を失い、道に迷い始めた時、チームの先輩・福本豊から思いがけない話を聞かされた。打たれた相手の土井と福本は大鉄高の先輩後輩。そんな関係で言葉を交わした時、土井が言ったという。

「高志のボールの中ではストレートが一番打ちにくい」

 それを聞いて、山口はハッと胸を衝かれた。

「それが私の、覚醒の時でした……」

 初めて、速球に自信を与えられた瞬間だった。

「そのことが、4月22日の南海戦の先発初勝利につながったのです」

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