東京電力と右翼の黒幕「田中清玄」(第2回) 彼はなぜヤクザから狙撃されたのか(徳本栄一郎)

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 右翼の黒幕、そして「東京タイガー」と呼ばれた国際的フィクサーの田中清玄。戦前は武装共産党を率い、11年を獄中で過ごし、戦後は建設業や海外の石油権益獲得などの事業を手がけた。

 その田中は終戦直後、過激化した共産党に対抗して、電源防衛隊を組織する。ヤクザや復員兵も動員し、まさに体を張って発電所を守るが、その足跡が、東京電力の社史から消されているのは前編「東京電力と右翼の黒幕「田中清玄」 共産党の発電所破壊工作を阻止した男」で述べた。

 やがて時は流れて、焼け跡は記憶の中だけとなり、時代は復興から高度経済成長へと移った。

 真新しいビルが立ち並び、翌年に東京五輪を控えた1963年11月9日の夕方、丸の内の東京會舘前は、送迎の車で混雑していた。ここは皇居外苑を囲む日比谷濠に臨み、連日、様々なパーティが催される。

 午後6時を過ぎた頃、一分の隙もない正装の男が會舘から玄関に出ると、迎えの車を待っていた。知人と談笑していた、その時、約1メートル離れた所で突然、「田中!」という叫び声が上がる。ふり向くと、両手で拳銃を握り締めた若い男が立っていた。次の瞬間、数発の破裂音が響いて、悲鳴と怒号が飛び交う。ややあって数人が飛びかかり、男を取り押さえた。

 後に「田中清玄狙撃事件」として知られる出来事に、晩年の田中は自伝で触れている。この日は、戦前の共産党の同志で評論家、高谷覚蔵の出版記念パーティに出た帰りだったという。

「玄関を出ようとしたところを、いきなり腹を撃たれたんです。そこでひるんだら本当に殺されると思ったから、向かって行って相手を倒した。銃口を肘に押し付けて首を絞めようとも思ったが、こっちは空手をやっていたし、殺してしまったら背後関係も分からなくなってしまう。それで殺さずに、まずピストルを奪おうとした。相手も必死でした。ピストルをとられたら、逆に殺されると思ったのでしょう。それでもう一発、肘を撃たれました。その後、やっこさんは東京会館に逃げ込もうとしたのを、こっちは追いかけていって、ドアのところに挟むようにしてつかまえてやろうとしたが、そのときドアの隙間から三発目を撃たれたのが、腎臓にまで届いた」(「田中清玄自伝」)

 当時、田中はすでに57歳。若い頃に空手で鍛えたとは言え、身に3発の銃弾を受けて暴漢に立ち向かう。その姿は尋常ではなく、かつて武装共産党、電源防衛隊で見せた激しさは全く衰えてなかった。

「児玉がやらせた」

 そして、終戦直後から行動を共にした側近の太田義人も、この狙撃事件は生涯忘れられなかったようだ。

「その日は、たまたま三井物産の人と会う約束があってね、東京會舘の向かいのバーで飲んでたんです。その間に撃たれちゃったんだ。田中もすぐ帰ればいいのに、例の調子で、あっちこっちで握手してたんでしょ。うちに帰ってテレビ観て、びっくりですよ。それで、慌てて築地の聖路加病院に駆けつけた」

 着くと、ちょうど緊急手術が終わったばかりで、銃弾は内臓を回り、命を取り留めたのは奇跡とされた。丸の内署員に逮捕された犯人は、暴力団の東声会の木下陸男という男だった。それを聞いた瞬間、“しまった”と“やっぱり”という思いが太田の頭に交差したという。

「あの頃、田中は田岡さんと麻薬撲滅運動をやってて、『狙われてるから、気をつけてくれ』と言われた。それで欧州に出しちゃおうと、切符もパスポートも用意したのに、高谷の出版記念会があるんで、出発を2日延ばした。そしたら撃たれちゃった。田岡さんも、『混乱を起こすようなことを人に言わんでくれ。ヤクザの世界は違うんだ』と。ヤクザの世界ってのは、大勢力になれば、拮抗して中々ぶつからんのですよ。そこへ田岡が良くて、児玉は悪いとか言われると困るんです。東声会は児玉とつながってるし、その東声会に撃たれたからね」

 田岡とは日本最大の暴力団、山口組の3代目組長、田岡一雄、そして児玉とは戦後の右翼のフィクサーとして裏社会に君臨した児玉誉士夫を指す。彼らが狙撃事件にどう関わったのか。

 田中と田岡が知り合ったのは終戦直後、田中が横浜で建設会社を興した頃だったという。田岡は神戸の沖仲士を仕切る有力者で、2人はすぐに意気投合した。その付き合いは家族ぐるみで、山口組が組織暴力団と非難されるようになっても続く。反共活動家と暴力団の親分、立場は違えど、互いに共感し合うものがあったのだろう。

 一方の児玉誉士夫は戦時中、上海で児玉機関を作り、海軍の物資調達を行う。調達と言えば聞こえはいいが、実際は中国人からの略奪に近かった。戦後はA級戦犯として逮捕されるが、後に釈放、中国から持ち帰った莫大な資産で政界のフィクサーとなる。

 また暴力団などを使って企業に睨みを利かせ、70年代のロッキード事件で、米航空機メーカーの秘密代理人として登場した。様々な経済スキャンダルに名前が隠見した右翼の黒幕である。

 そして63年、田中と田岡は、作家の山岡荘八や政治家の市川房枝らを交えて、「麻薬追放・国土浄化同盟」なる組織を立ち上げた。麻薬根絶を目指すものだが、じつは児玉が全国の博徒と右翼を大同団結させ結成した「東亜同友会」に対抗するためである。

 この結果、東西の暴力団の抗争が激化し、西の田岡を支持する田中が、東の児玉に狙われる構図になってしまった。その田中の児玉評は、辛辣の一言に尽きた。

狙撃は、「児玉がやらせた。私が田岡組長と組んで、山口組の東京進出を図ろうとして起きた暴力団同士の抗争事件だなんてマスコミは書いたけど、全部うそだ」(「田中清玄自伝」)

「児玉を、戦前は軍が使い、戦後も自民党の長老たちは使っていたなあ。世のため人のためにやるなら別だが、国家の名前を使いやがって、一番悪質な恐喝、強盗の類いじゃないか」(前掲書)

 これだけだと両者は水と油のようだが、太田に言わせると、話は若干違う。

「田中は、児玉とは合わなかったと言うが、私が三幸建設に入る前は付き合いがあったらしいんだ。北海道の料亭で、一緒に児玉たちと会ったこともありますよ。仲が良くて、会社に空手道場を作った時も見に来たしね。ただ、児玉が経済事件とかに関係してるってんで、『あいつは、あんなことやってるのか』って、会うのを止めちゃった。だから、付き合いがあったのは事実ですよ」

 戦時中は軍に協力し、終戦の混乱で莫大な資産を手にした児玉。その後も配下の暴力団や総会屋を使って、幾つもの経済事件に関わる。同じ右翼でも行動が違い、袂を分かつのはごく自然だったのかもしれない。

 そのクライマックスが東京會舘の狙撃で、この直後、聖路加病院の病室に、ある見舞客が現れたという。

 痩身に作務衣をまとい、ステッキを手にした老人で、年齢は80代の後半、見つめられた相手が竦むような鋭い眼光だった。老人の名前は松永安左エ門、戦前から電力業界で活躍し、戦後の業界再編で旗振り役を演じた。すでに第一線を退いたが、隠然たる力を持ち、東京電力の生みの親と言える。

 松永は病室に入ると、ベッドで意識がないまま横たわる田中の傍らに立った。そしてステッキを握り、何かを語りかけるように、じっと見つめていたという。その場に居合わせた太田が証言する。

「電源防衛をやってた頃、松永さんは日発解体、9電力会社の再編ですよね。田中は日発との関係上、『松永は電力界を壟断する、けしからん奴だ』って糾弾してた。そこへ、ある人から『とにかく、一遍会いなさい』と言われた。それで会いに行ったら、ころっと変わっちゃったんだ。それからは松永さんの弟子ですよ。それまで、国賊だ、ぶっ殺すなんて言ってたのにね」

 前編で述べたように、終戦直後、田中は日本発送電、いわゆる日発の発電所を共産党から守る電源防衛を行う。猪苗代の発電所などへ荒くれ男を送り、文字通り、死闘を繰り広げた。

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