水素爆発で「生きて帰れないかと…」 福島第一原発元所員が明かす「事故当日、何が起きたのか」 #あれから私は
「非常用発電機が落ちました」
3月11日、全交流電源喪失を意味する「ステーション・ブラックアウト(SBO)」が起きたあの日から福島第一原発は不眠不休の作業を強いられることになった。原発最奥部で何が起きていたのか。元所員が戦慄体験を振り返る。
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現在50代の元原発所員、田中彰浩さん(仮名)は地震発生時、福島第一原発の事務本館にいた。
「2階の自席で仕事をしていました。あまりの揺れで天井のボードはほとんど落下し、“床が抜けるのでは”と思ったほどでした」
と、田中さんが言う。
「地震後、一旦駐車場に避難した後、隣にある免震重要棟に入りました。津波が来た時には2階の緊急時対策室(緊対室)にいて、脅威を感じることはなかったのですが……」
津波による異常が生じたのは地震発生の約50分後、15時37分からだった。1・2号機の中央制御室の計器パネルの光が消えていったのだ。
「SBO! 非常用発電機が落ちました」
中央制御室から免震重要棟にそう報告が入る。
「空爆の跡のようで…」
「俄かには信じられませんでした。これが本当に現実なのかと。生きて帰れないかもしれないと感じたのは3月12日に1号機が水素爆発した時です。私は緊対室にいたのですが、ドンという轟音と激しい縦揺れで最初は余震だと感じました。が、テレビで爆発の映像が流れ、部屋は騒然。14日、3号機が爆発した時には“まさか、また起きたのか”という気持ちでした。ほどなくして、“注水現場に行ってほしい”と消防担当の隊長から声をかけられたのです」
3号機の爆発により、現場の作業員にはけが人が続出していたのだ。
「誰かが行かなければという思いでした。損傷した消防車と消防ホースを一刻も早く復旧しなければならない。しかし、免震重要棟から出る時はさすがに恐怖で体が震えました。現場はがれきが散乱し、空爆の跡のようで、もう私の知っているプラントではなかった」
現場では作業時間わずか2時間で被曝線量が40ミリシーベルトを超えてしまう。
「3月末までには130ミリシーベルトに迫る被曝線量となり、現場には出られなくなりました。ただ、今に至るまで毎年の健康診断で、被曝の影響と思われる不調は特にありません」
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