水泳「長崎宏子」が語る“人生最大の挫折”とは 「子どもには、あんな思いさせたくない」(小林信也)

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 モスクワ五輪を知る世代なら「長崎宏子」の名を鮮明に覚えているだろう。水泳日本選手権女子200メートル平泳ぎで優勝、モスクワ五輪代表に選ばれた時まだ12歳、小学6年生だった。

「オリンピックを意識したのは代表に選ばれてからですね。オリンピックのオの字も知りませんでした。選ばれた時すでにボイコットは決まっていたのですが、よく覚えていません」

 秋田で生まれ育った少女が、自分の天性に出会った日のことを話してくれた。

「私は小学校に入ってから、スイミングスクールで泳ぎを覚えたので、水に潜ること、浮くことすべて『克服しなきゃいけない』という感覚で教わりました。

 クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライの順で泳ぎを覚えたんですが、平泳ぎにたどりつくまでは苦痛でした、プールに通うのが。周りに上手な子がいっぱいいる。私はどこかしら負けず嫌いな性格だったので、悔しくて(笑い)」

 プールに行くとバタ足から練習が始まる。

「私は全然進まない。後ろの子からつつかれるし、前の子に離される。隣りの子には置いていかれる。あまり楽しくなかった。ところが、小学校2年の終わりか3年の初めごろ。平泳ぎのクラスに進んだら、1回の蹴りでグーンと進む。後ろの子につつかれないし、隣りの男の子より速く泳げる。気がついたら私はプールでいちばん泳ぎの上手い子になっていました。それからはプールに行くのが楽しくて、楽しいまんまモスクワの代表まで行っちゃった」

 たいていの子にとって難しいカエル足のキックが、苦もなくすぐできた。

「膝と足首がやわらかかったのでしょうか。平泳ぎは私の天命みたいな感じで、しっくり来たのです」

 身体の中に生来、平泳ぎの動きが組み込まれていたかのように。平泳ぎとの出会いで水泳人生の扉が開いた。それが宏子にとって最初の「覚醒の時」だった。

水泳は自己表現

 中学3年(1983年)の夏、プレ五輪で優勝し、「金メダル候補」の最右翼となった。しかし、高校1年で迎えたロサンゼルス五輪は期待どおりには展開しなかった。

「言い訳にする気はないですけど、ロスのときは身体的な成長期でした。モスクワからプレ五輪までの3年間で身長が10センチ伸びている。それって人間としてすごい変化ですよね。

『これだけやらないと金メダリストになれないぞ』的な感じで急に練習量が増えたのも、成長期とうまくかみ合わなかったのかなあ。膝の故障でなかなか泳ぐことができませんでした」

 十分に調整できないままロス五輪に臨み、200メートル平泳ぎで4位にとどまった。喪失、挫折。敗北は16歳の少女に大きな打撃を与えた。

「私ももう52歳になりますけど、人生を振り返って、あのときほどショック、ダメージを受けたことはなかった。その後いろいろ経験をしましたけど、あのような思いだけは、子どもたちにさせたくないなあ」

 3人の娘を育てた母親の顔で宏子がつぶやいた。そして、こう続けた。

「親からもらった身体で、これだけのことができる。水泳は一種の自己表現です。私が泳ぐことで周りがハッピーになる。ゴールタッチしたときみんながワーッと言ってくれるってすごくうれしい。その一瞬のために泳いでいる感覚がある。そのいちばん大きな舞台オリンピックで成果が得られなかった。もう自己否定です。自分はダメなやつ。それしか頭に浮かばなかった」

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