「岡本綾子」米ツアー17勝を可能にした独自のゴルフ論(小林信也)

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 岡本綾子が初めてゴルフ・クラブを握ったのは高校卒業から4年目の12月。

「ソフトボールをやめてすぐでした。練習場で10球くらい打ったんですよ」

 穏やかな表情で言った。

「あんまり感動はなかった。左利きだけど右打ちのクラブしかなかったから、言われるままに右でバンと打ったらビューンとトップボールでスライスした。その1球だけ記憶にあります。1メートルくらいの高さで、地を這うようにシューッと飛んで行った。おーっという感じ」

 見ていた者は、その初速の速さに驚嘆した。

「ホームランバッターでしたから、飛ぶんですよ」

 こともなげに岡本は言った。その時すでにゴルフでプロになると決めていた。翌1月、ゴルフ場に就職。「ゴルフを学ぶにはキャディーになるのがいちばんいい」と助言され、働きながら練習を始めた。

「最初にレッスン書を2冊読みました。古いザラザラした紙の本でした。写真も白黒、選手の顔もよく見えないような。全部アメリカの選手でしたね。連続写真が載っていました」

 その本で、ゴルフ用語や基本的な知識を学んだ。

「活字を追いかけることは大切です。ボールに近づいて立つと右に行くとか、左の親指をシャフトのセンターより内側に置けばフックになるとか。読んだ知識を練習で試しました」

 プロになってからは、見て盗んで身につけた。

「アメリカに行き始めたころ、2年連続全米女子オープンに優勝していたホリス・ステーシー(アメリカ)がバンカーで練習するのを見ていたことがある。1時間も2時間もずっと。動き、テンポ、砂の音をイメージしながらね」

 岡本が自分の身体に映そうとしたのは、形より、テンポや音だった。

“怒り”は使わない

 プロゴルファー岡本綾子にとって覚醒の時はいつ訪れたのだろう?

 1982年2月、アメリカツアーで初優勝を飾った。その年、国内でも4勝。10月に日本女子プロゴルフ協会に休会届を出し「1年間アメリカでプレーする」と宣言。「岡本は日本を捨てた」とメディアに叩かれた。さらに、記者にオフレコで話した内容が協会批判の形で書かれ、火に油を注いだ。著書『情熱と挑戦 私の履歴書』にこう書かれている。

〈暮れに渡米していた私のもとへ、週刊誌報道に激怒した協会の理事がわざわざ2人やって来て面罵された。

「フニャ、おまえは自分さえ良ければいいと考えている。ゴルフができないようにしてやるぞ」。何という脅し文句。協会もマスコミも信じられず、人間不信に陥った。〉

 フニャは当時のあだ名だ。

 そのような理不尽に対する憤りが闘志に火を点けたのか? 訊くと岡本は、

「その怒りは別のエネルギーです。それをゴルフに持ち込んだら面倒くさいから、使わないことにしました」

 他人事のように冷静な声で言った。意外な言葉だ。多くのアスリートはそうした怒りをバネに自分を奮い立たせる。ところが岡本は「使わないことにした」という。

「高校を出て実業団(大和紡)でソフトボールをやっていたころはまだ世間知らずの子どもでした。大人になりきれない自分がいて、悦に入ることもなかった」

 面白い言い方だと思った。ゴルフと向き合うようになって岡本は“悦に入る”ことを覚えた。それは孤独な闘いの中にふと訪れる至福の時だったのかもしれない。

「流れが先に見えることがたびたびあります。ここは私が優勝するんだなあとか、今日はトップ5だなとか。

 他人の性格を考えるのも嫌いじゃなかった。分析して50%でも当たったら“よっしゃ”と悦に入る」

 岡本はうれしそうに笑った。コースで苦闘しながら、そんなふうに自分の中のゲームを楽しんでいたのだ。

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