【歴史発掘】「麻生家」と明治維新の陰で動いた英国「ケズウィック家」の知られざる物語〈前編〉

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詐欺で告発された健三

 その吉田の生い立ちを、孫の麻生副総理は著書『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』でこう記している。

「祖父、吉田茂には二人の父がいる。実父は土佐の自由党の志士だった竹内綱(たけのうちつな)。養父は越前福井藩藩士の末裔(まつえい)で、貿易商として一代で財をなした吉田健三。二人は大の親友で、一人も子どもがいなかった吉田健三に『今度生まれる赤ん坊が男の子だったら君にあげよう』と竹内綱が申し出るほどの仲だった」

 そして、その約束は実行されるのだが、健三は長崎などで英語を学び、1870年代、横浜のジャーディン・マセソンで働いていた。

「彼は海外から商品を買いつけ、日本からはさまざまな物産を輸出する、いわゆる商取引に抜群の才をあらわした。扱った商品は生糸から軍艦までというから、今でいえば商社マンということになろうか。ジャーディン・マセソン商会から独立した吉田健三は、海運代理業をはじめ数々の事業を興し、そのことごとくを成功させた」(同書)

 だが成功した実業家の健三は、1889年、40歳の若さで病死する。そして早世した養父の遺産、一説には50万円、現在の貨幣価値で約30億円もの資産を相続したのが、わずか11歳の茂で、それを完全に食い潰してしまったのだった。

「養父の遺産を継いだ祖父の生活スタイルは派手であり、かなり目立ったという。学生の身でありながら東京に家を構え、馬に乗って通学したのである」

「母は、吉田家から祖父が相続した財産がどこに行ってしまったのか本当に不思議で、『一度聞いてみようかと思ったが、とうとう聞かずじまいに終わってしまった』と言っていた。財産の行方はこれから先も謎のままということになるが、祖父が政界入りの前にきれいさっぱり使い果たしてしまっていたのは間違いない」(同書)

 当の茂も茂で、晩年の著書に「2代目の私はもっぱら減らすことに精進してきた」「“吉田財閥”も従って終りを告げた次第」と書いたくらいだから、間違いない。

 彼は若い頃から財布を持たず、代わりに小切手を使ったという。また接待を非常に嫌い、好きな芸者遊びも連日、自腹を切って通っていた。まさか莫大な遺産を全部芸者ですったのでもあるまいが、その原資は、養父がジャーディン・マセソンで得た報酬だ。

 それが、後のGHQにも怯まない豪胆さを生んだとすれば、生きた金の使い方だったと言える。

 だが、これまで謎だったのは健三が同社に入社した経緯である。それがきっかけで、今に続く吉田・麻生家とケズウィック家の絆が生まれるのだが、その答えは、ロンドンの英国立公文書館が保管する文書から見つかった。

 明治維新直後、江戸から名称が変わったばかりの東京で、若い吉田健三は何と、詐欺で告発されたのだ。その彼を助けたのがジャーディン・マセソンで、この裏には、日本と英国の国際問題に発展した巨額詐欺事件が絡んでいた。

 英外務省の記録によると、事の顛末は次の通りである。

 1870年11月、横浜のジャーディン・マセソン商会に川越藩から、ある商談が持ち込まれた。同藩は、今の埼玉県川越市が拠点で、江戸の北の守りとして幕府は代々、有力大名を配置した。その物産総括を名乗る、天野恕一という男が蒸気船1隻の購入を注文、年末には契約書も作られ、川越藩から支払いを待つだけとなった。これが完全な詐欺だったのだ。

 英外務省によると、天野の蒸気船購入を藩は承認しておらず、おそらく私的なビジネスに使って一儲けを狙ったという。ジャーディン・マセソンはハリー・パークス駐日英国公使に直訴し、川越藩に支払いを求めたが相手は拒否、裁判沙汰になった。そして天野の商談の通訳を務め、共犯として告発されたのが吉田健三であった。

 吉田の調書が英訳されて残っているが、彼も、よもやこれが詐欺とは夢にも思わなかったという。

「自分は、この蒸気船は蝦夷(えぞ)や大阪との間の交易に使うと聞かされ、天野が藩の名前を借りたとは知りませんでした」「不注意な通訳をしてしまい、慙愧に堪えません」

 そして吉田は、ジャーディン・マセソンに自分の扱いで当局に働きかけるよう訴え、同社も協力に同意した。元々は商談を通訳しただけで、詐欺の責任を問うのは酷と判断したようだ。

自宅謹慎30日

 結局、1872年の春に判決が出て、川越藩に責任はなく、主犯の天野は私財没収と懲役2年半、吉田には自宅謹慎30日が命じられたのだった。

 英国立公文書館が保管する判決と吉田の調書を読むと、悔しさで唇を噛む姿が目に浮かんでならない。他の幕末の若者同様、彼も時代の熱を受け、故郷の福井を飛び出した。長崎などで必死に英語を学び、飛躍した途端に、詐欺の容疑者となってしまう。

 だが屈辱と怒りで身を震わせつつ、まさか自分の子孫から、吉田茂、麻生太郎と2人の総理大臣が輩出するとは夢にも思わなかったはずだ。

 そして、この事件はジャーディン・マセソンにも貴重な教訓を残した。新政府が発足したとはいえ、国内統治は未整備で、怪しげな商談などトラブルも相次いだ。そこでは現地の情報を集め、相手の信用度を見抜く、今で言うデューデリジェンスが必要だ。

 現に仲裁に当たった駐日英国公使館も、「仮契約前、もう少し慎重に調べれば、天野の正体に気づいたはず」と批判している。それを身に染みて学んだ吉田はまさに適任で、直後から同社で働き始めたのを見ると、事件が採用のきっかけとするのが自然だろう。

 天野恕一という稀代の詐欺師のおかげで、ジャーディン・マセソンと吉田健三は出会い、茂に莫大な資産を残し、今に続く吉田・麻生家とケズウィック家の絆を生んだ。

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」と言うが、歴史は時に思いもよらぬ演出をするのである。

 こうして明治に生まれた両家のコネクションは、大正から昭和、平成へと移り、各国政府や情報機関も巻き込んだ波乱のドラマを繰り広げていく。(後篇につづく)

徳本栄一郎/ジャーナリスト

週刊新潮 2020年11月12日号掲載

歴史読物 「『麻生家』と『明治維新』仕掛け人の邂逅と系譜 前篇」より

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