【歴史発掘】「麻生家」と明治維新の陰で動いた英国「ケズウィック家」の知られざる物語〈前編〉

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明治維新を組織

 日本の歴史、それも幕末以降の近代史に興味がある人なら、ジャーディン・マセソン商会の名前は聞いた事があると思う。

 同社は1832年、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンというスコットランド出身の貿易商により、中国の広東で設立された。当初は中国のお茶やインドのアヘンを扱ったが、清朝がアヘンの密貿易を禁じると、英国議会に政治工作して英海軍を派遣させ、1840年、アヘン戦争が勃発した。

 この結果、中国は武力で屈服させられ、香港は英国に割譲されるのだが、ジャーディン・マセソンは香港を拠点に船舶や運輸、金融などに多角化、国際複合企業に成長する。また幕末から日本に進出し、討幕派の薩摩や長州に武器を売却、“明治維新の黒幕”とも形容された。

 文字通り、世界史を変えてきた会社で、やがて同社の経営はジャーディン家と姻戚関係のケズウィック家に移り、私の目の前にいるヘンリーは、その4代目に当たる。

 そして、この一族と数世代に亘って密接な関係を維持してきたのが吉田・麻生家で、物語は今から約160年前、横浜の地から始まった。

 1859年、安政6年の7月のある日、横浜の沖合に停泊する帆船トロアス号のデッキで、一人の英国人青年が陸地の方を凝視していた。ようやく辿り着いた新天地だというのに、目に映るのは、一面に広がる沼地と藁葺き小屋の寒村である。何とも言えない物哀しさだが、ここが交渉の末、徳川幕府が認めた貿易の拠点なのだ。

 青年の名前はウィリアム・ケズウィック、その4年前にスコットランドから中国へ渡り、ジャーディン・マセソン商会で働いていた。

 米国の東インド艦隊のマシュー・ペリー提督率いる軍艦が来航し、開国を迫ってからすでに6年が過ぎた。巨大な黒船に狼狽した幕府は要求に応じ、日米和親条約を結ぶが、その後も欧米は日本との貿易を求め続ける。その結果、1858年に修好通商条約が結ばれ、米国や英国などが横浜を含む港で貿易を認められた。

 これを機に、一攫千金を狙う外国商人が一斉に来日するが、その先陣の一人がヘンリー老人の曾祖父でジャーディン・マセソンの若手、ウィリアム・ケズウィックだった。

 ずっと後になるが、横浜開港100年を記念して同社がまとめた日本語の冊子に、こういう記述がある。

「ケズウイツクは横浜の海岸通、旧棧橋の入口の『居留地一番』と称せられた土地に木造二階家を建て、こゝを事務所として貿易を始めた。その為当時の日本人はジヤーデイン・マセソンを『英一番館』と呼んだ」

「開港直後の我が国では、外国商人で未だ事務所を持たないものが多く、それらは、船を事務所として取引を行つていた。又、日本の商人もどんなものが外国人に好まれるか分らなかつたので、生糸、絹織物、木綿織物、麻、米、麦、蝋、金属製品、漆器、陶器等を雑然と店にならべていた。互に言葉が全く通じないので、取引も手真似、身振りでするような状態であつた」(「英一番館:日本に於ける百年 安政6年~昭和34年」)

 初めて訪れた異国で悪戦苦闘するのが目に浮かぶが、やがて横浜には煉瓦造りの商館や教会、ホテルが建てられ、かつての寒村は急速に変貌を遂げる。

 そして、ケズウィックが横浜に着いたのと同時期、もう一人、スコットランド出身の青年が日本でのビジネスを夢見て長崎に上陸した。彼の名前はトーマス・グラバー、このグラバーという名前も聞き覚えがある人は多いと思う。

 長崎でジャーディン・マセソンの代理店のグラバー商会を設立、討幕を目指す薩摩や長州、土佐の坂本龍馬に武器を売り込み、明治維新の推進役になった。後にジャーディン・マセソンは、当時の記録を英ケンブリッジ大学の図書館に寄贈、研究者の閲覧を認めたが、そこには長崎でのグラバー、横浜、上海でのケズウィックの活動が詳細に記述されている。

 その意味で、冒頭の「私の曾祖父は日本の明治維新を組織した」という言葉は独特の凄みがある。だが、私がジャーディン・マセソンと明治維新の繋がりを実感したのは8年前、同社のオフィスを訪ねた時であった。

 ロンドンの金融街、ロンバード街3番地にある重厚な建物の会長室に通され、ヘンリー・ケズウィックと対面した際、彼が何気ない口調でこう呟いたのだ。

「おそらく、伊藤もここに来たのかもしれないな」

 一瞬、何の話かとキョトンとしたが、ややあって伊藤博文の事だと分かって驚愕した。

長州ファイブを支援

 開国か攘夷かで国論が二分され、外国人襲撃も相次いだ1863年、長州藩の若者が横浜のジャーディン・マセソンに接触してきた。幕府の禁制を犯して英国に留学したいので、支援して欲しい。見つかれば死罪の恐れもあるが、ぜひ向こうで鉄道や造船、造幣など西洋の知識を身につけたいという。

 これが若き日の伊藤博文や井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三、いわゆる「長州ファイブ」で、いずれも後に明治政府で初代総理大臣や外務大臣など要職に就く。彼らはジャーディン・マセソンが手配した船で英国へ渡り、ロンドンの大学で学ぶが、それを支援したのがウィリアム・ケズウィックら当時の経営幹部だった。

 徳川幕府が倒れて新政府ができれば、この男は将来、日本の総理大臣になるかもしれん。その時、わが社の投資は必ず生きる。留学支援の労を惜しむべきではない。ひょっとしたら役員会で、こんな会話があったかもしれない。

 当時、長州ファイブを世話した同社の兄弟会社の住所はロンバード街3番地、たしかにここに伊藤が来ていてもおかしくない。明治維新の黒幕か……そう考えた時、思わずハッとして会長室の内部を見回したのを覚えている。

 同時に驚かされたのは、これら幕末の物語に登場する人物の若さである。

 ウィリアム・ケズウィックが横浜で事務所を開いたのは25歳、トーマス・グラバーが来日し、伊藤博文が英国に密航したのは共に21歳といった具合だ。日本の近代史の転機になった明治維新は、これら野心と冒険心に富んだ若者たちの邂逅で生まれていったのだった。

 そして維新から2年経った1870年の秋、煉瓦造りの洋館が建ち並んで変貌した横浜に、ある福井藩出身の青年が現れた。

 彼もまた時代の熱に引き寄せられた一人で、やがてジャーディン・マセソンに入社、日本の歴史で重要な役割を担う。青年の名前は吉田健三、吉田茂元総理の養父である。

 戦後の日本の針路を定めた宰相として、吉田茂の名は広く知られる。敗戦による占領期、反抗的と言える態度で連合国軍総司令部(GHQ)に立ち向かい、軽武装・経済中心主義を根付かせた。その薫陶を受けた佐藤栄作、池田勇人ら後進の政治家は「吉田学校」と呼ばれ、自民党の中核を担っていった。

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