杉下茂が魔球“フォーク”を多投しなかった理由 味方から「一人で野球やるな」と言われて(小林信也)

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フォークは3種類

 杉下がただ一度、フォークボールを多投した試合がある。54(昭和29)年の日本シリーズ第7戦、西鉄を破って優勝を決めた試合だ。杉下は初戦に完投勝ち、第2戦も6回から救援、第4戦は完投負け、第5戦は完投勝ち。3勝3敗で第7戦にもつれ込み、またも杉下が先発のマウンドに立った。

 初回を0点で切り抜けてベンチに戻ると、捕手の河合保彦が青い顔で言った。

「カーブが全然、曲がっていません」

 杉下が回想する。

「わかった、サインはカーブでいい。オレが自分で投げ分けると言って、フォークを投げました。挟み方によってフォークは3種類。第1関節で挟む、第2関節で挟む、指の根元で深く挟む。一番鋭く落ちるのは、深く挟んだ時だよ」

 浅く挟むフォークをカーブのように使い、ここぞの場面で深く挟んで落とした。

「2回から80球くらいのうち半分はフォークだった」

 高校時代からの恩師で、自分をドラゴンズに誘ってくれた天知俊一監督をどうしても日本一にしたかった。その一心で投げた40球超のフォークボールだった。

「やっと責任を果たせた」

 勝利のあと杉下は、胴上げに加わらず、疲労困憊でベンチにうずくまっていた。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2020年11月26日号掲載

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