7回忌を迎えた「高倉健」 甥が初めて明かす「親しかった著名人」「やりたかった映画」

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「“手紙を書け”というのは折に触れて言われました」

「ヤクザ映画全盛の頃には、福岡の地元に年に一度帰ってきていました。私たち子どもの親族たちは『欲しいものリスト』を送るとそれを持って帰ってくる。リストは必ず速達で書かないといけません。“手紙を書け”というのは折に触れて言われました。“ロケ先にも持っていけるから都合が良いんだ”と」

「主演する映画の試写会が福岡であるとちょくちょく帰ってきていました。『野生の証明』だったかな。クルマに子どもの親族が同乗していた時に、“野生の証明と八甲田山、どっちが良かった?”と聞かれて、子どもたちは全員、“野生の証明”と答えたんですが、若干寂しそうな顔をしていました(笑)。撮影は明らかに八甲田山の方が辛かったでしょうからね」

「夏休みには家族みんなで東京へ行っていました。港区の赤羽橋に事務所があって、僕だけ“健、行こう”と誘われて、表参道のキディランドに行くんです。“好きなもん買え”と。お客さんは遠巻きに私たちを見つめているというような感じでした」

「クルマとファッションと時計が好きでね。ポルシェは356とか911。スティーブ・マックイーン、『栄光のル・マン』の影響です。彼のスタイルに自分を重ね合わせていた。もっとも、あの時代の人なら多くはそうなのかもしれませんがね」

「洋服も好きでした。ビームスが原宿にできたころから、“お客さんいないのか、大変だろ”と言って、棚にある商品を丸ごと買っていたこともあるそうです。それをみんなに配るんですよ。映画もスタイリストはついているものの、最後まで自分で決めていたんですよ。時計も好きでね。気になったモデルは自分で電話していましたよ」

「ヴァシュロン・コンスタンタン、パテック・フィリップ……。ロレックスも多かった。それ以外のブランドは、家で見るのが好きだったと思いますよ」

「CMに出ていた三菱については外部アドバイザーのような存在でした。30年以上やっていたんですよ。ディアマンテを貸与されているときだったと思いますが、“ある一定のスピードになったらリアスポイラーがあがるんだ。これはいずれポルシェに転用されるぞ”と言っていたことがあった。事実、そうなりましたよね。“ゴムのタイヤが4つあって、ハンドルが1つあるものなら何でもいい”とも話していた。要するに、クルマが好きだった」

「チエミおばちゃんは明るくてとても良い人だった」

「品川プリンスの本館と別棟とをつなぐ庭に2階建てのカフェがあったんですが、そこを打ち合わせ場所にしていましたね。個室ではありませんが、人と会うときは、貸し切り状態にするんですね。そこに連れて行かれたこともありました」

「江利チエミさんは、僕が物心ついたころは、別れる直前でしたが、とても可愛がってもらったという印象しかないですね。ウチのお袋もまったく同じですね。叔父の世田谷の家が火事になって焼け出された後、一時期ホテル・オークラに仮住まいしていたこともあります。そこで(江利)チエミおばちゃんとちっちゃい犬2匹も一緒にいて、私もそこでコーヒー飲んだことは印象に残っています」

「チエミおばちゃんは明るくてとても良い人だった。ウチの親族とも良い関係で、私の祖父母、チエミおばちゃんにとっては義理の父母を福岡の実家に1人で訪ねることもありました。ウチのおふくろと一緒に3人で暮らしていたこともあったんですよ」

「叔父は健康オタクで、ジムには通っていましたよ。基本は筋トレですね。サプリメントも1960年代にはすでにアメリカから取り寄せていたと言います。1日に飲む分を小分けにして持っていましたね。酒は30年以上前から止めていました。一杯くらいは口にするんですがね。はっきり言いませんが、学生時代に何か失敗したことがあったんでしょう」

「1日1食なんですよ。晩飯しか食べない。ストイックだけどエピキュリアンでね。金沢に掘っ立て小屋みたいなステーキ屋があって、パッと行っちゃうんです。『ひよこ』という店でね。ラーメン屋にも顔を出していました。店の人を驚かすのが好きだったみたいですよ、突然行ったりして」

「あまり知らない人にとっては、あの角刈りのヤクザっぽい人? と言われているでしょうし、ちょっと知っている人からも不器用と言われていますが、本当はそうばかりでもなかったと思います。世間に流れている『不器用』なイメージについては楽しんでいるところがありましたね」

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