7回忌を迎えた「高倉健」 甥が初めて明かす「親しかった著名人」「やりたかった映画」

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〈鎌倉霊園の墓地にも入らず、散骨することになる。すべて高倉本人の考えだ〉

〈没後の処置について、すべて高倉の意向に従ったまでだ。密葬で済ませ、戒名は不要、四十九日をするつもりがなく、鎌倉霊園の墓地にも入らず、散骨することになる。すべて高倉本人の考えだ〉

〈自分は高倉が病気になってからほとんど寝ていない。高倉健とは生涯現役で、撮影現場以外の姿を見せてはならない存在である。小田剛一である前に、高倉健であった。自分はそれを守るためにたった1人で、発病以来、ずっと奮闘してきた。いや、高倉と交際して以来、ずっとそうだった。そしてそれをやり遂げた〉

〈亡くなってからも守るべきものとは、高倉のプライバシーである。避けなければいけないのは、養女という存在をスキャンダラスに暴露されることである。親族との確執があるとか、交際を興味本位に捉えられるのを避けなければならない。にもかかわらず、すでにそのような動きがある〉

〈高倉健を守るために自分は孤軍奮闘していることを理解してほしい。親族サイドから、おかしな話がマスコミに出回らないように口を噤んで頂きたい〉

〈今後、どうしてもということであれば、面談する機会を設けてもいい。ただ、体力的にきついので1時間程度で〉

 それから養女は、健さんが愛したはずのモノや場所の破壊に打って出る。フェラーリ・テスタロッサやマセラティなどの愛車コレクションやクルーザーを手放し、先に触れた鎌倉霊園の墓地の年間管理費を滞納するようになった。すべては〈故人の遺志〉というわけだ。

 健さんがこの墓地を求めたのは72年のこと。同じ東映で活躍した萬屋錦之介の熱心な勧めがあり、見に行ったらいっぺんで気に入った。

 正門から最も離れた小高い山の一区画の、約27平方メートルの四角い敷地で、敏子さんに対しても、「すごくいいところにあるから。鎌倉来たら連れて行く」と伝えていたほど。

鎌倉霊園の墓地から水子地蔵や墓石は撤去されて更地に

 墓地を購入した健さんは、元妻である江利チエミとの間の水子を祀る地蔵を置いた。健さんのデビュー年にあたる56年の映画「恐怖の空中殺人」で2人は出会い、3年後にゴールイン。江利は身籠もるが、妊娠高血圧症候群のために中絶を余儀なくされていた。

 健さんがこだわって選んだ八光石でできた像は高さ1メートル。その奥には小さな墓石を建て、本名と役者名を組み合わせた「小田健史」の名ならびに「小田家先祖各霊菩提」と刻んでいた。

 折に触れて健さんはここを訪ね、鎮魂を祈ってきた。だから、健さんが亡くなれば大きな墓石を置き、遺骨はここへ納骨される。そう誰もが信じて疑わなかったのだが……。

 16年5月ごろ、養女の意向で、鎌倉霊園の墓地から水子地蔵や墓石が撤去されて更地となったのだ。

 これと相前後し、健さんが愛し、そして養女も住み込んだ世田谷の豪邸の一部解体も始まっている。

 一連の“騒動”について、森健氏は、

「常識を守らない、常識的な対応をしない人間がいたこと、それについては納得はいってはいませんけれどね」

 としつつも、

「3年前、福岡県中間市にある小田家の菩提寺『正覚寺』の境内に、叔父の記念碑を建てることができました」

 記念碑には、健さん直筆による「寒青」の二文字を認めることができる。寒青は漢詩の言葉で、風雪に耐えて青々と立つ「冬の松」の意。健さんは著書『旅の途中で』(新潮社)でも、「とても好きな言葉」と触れている。

 3年前の11月4日には、記念碑の建立式と開眼法要が営まれ、親族をはじめ、東宝の島谷能成社長や40年来の付き人である西村泰治さんら、ゆかりのあった70人ほどが故人を偲んだ。お参りするところがない――。そんな状況が変わり始めた瞬間だった。

「お骨も全部ではありませんが一部戻ってきて、戒名も付けてもらってお墓に入っていますから、常識的な供養ができたかなと思っています。養女の方によると、“海に撒け”と叔父が言ったと言うことですが、私はそれを信じていません」

「叔父は“通夜、葬式……と続く一連の仏事は、残された者のためにあるんだぞ”と言っていました。忙しいから悲しみに暮れる時間もなく、辛さも紛らわせることができるし、親戚が集まって悲しいけれど笑い話も出るだろう。3回忌、5回忌で徐々に悲しみが薄まっていって、7回忌でひと段落だというようなことも、記憶に残っています」

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