「塚原光男」月面宙返りを生んだものは(小林信也)

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「日体大の入試に行ったら、右にこの人、左に監物(永三)さんがいたんです。私は二人に挟まれて答案を書きました」

 塚原千恵子(前体操女子強化本部長)が回想する。

「この人には見覚えがありました。インターハイで着地した後、スタンドの女子高生に手を振った選手だと」

 隣に座る塚原光男に目をやって千恵子が笑った。

「長崎を出るとき、“頭の黒いネズミ”には気を付けろと体操部の恩師に釘を刺されてきましたから」

 恋は二の次、五輪に出たいと燃えていた。しかし、光男には、初めて見た千恵子の可愛らしさが運命の出会いに思えた。

 光男は高校総体2連覇の特待生。千恵子は同28位、実績のない一般部員だった。

「光男さんは真面目に体操をやってるように見えませんでした。練習はギリギリで来る、ギターにばっかり熱中していた。私は朝早く起きて練習していたのに」

「違うよ。オレは体操を楽しんでいたんだよ」

 光男が反論する。当時、日体大体操部には460人もの部員がいた。女子だけで100人以上。通常の練習時、新入生は器具に触らせてもらえなかった。そこで千恵子は早朝に起き、誰もいない体育館で練習を重ねた。

「そしたら1年のうちに部内大会で上位に入って、代表に選ばれたんです」

 一方光男は、多くの男子部員の中に埋もれていた。

 大学2年の夏、東京でユニバーシアードが開かれた。

「千恵子は選手団に入ったのに、僕は入口で切符切り。何となく付き合い始めていた頃だから、これはいかんと思いました」。二人の立場が逆転した。1年後のメキシコ五輪、そのままでは千恵子だけが代表になる。

「僕はね、新しい技に挑戦するのが好きだった。演技をキチッと構成して減点をなくす練習には興味がない。とにかく技に挑戦してマスターする快感がすべてだった。でも千恵子に置いていかれる、まずいと思って」

 得点の取れる体操を磨き始めた。光男が振り返る。

「人生で奮起した時があったとすれば、あの時かなあ」

 すぐに成果を上げ、揃って1968年のメキシコ五輪に出場した。体操男子団体は優勝。光男の胸に金メダルが輝いた。女子は惜しくも4位だった。

パワハラ騒動の背景

 それから4年後。

「私もミュンヘンでメダルを狙っていました。でもケガをした。補欠で行ける順位でしたが、体操協会の動きがおかしい。別の選手を選ぶための選考会が開かれました。それで私は補欠もスッパリ断ったのです」

 幹部の仕打ちに反発を覚え、メダルをあきらめた。

「そのころから、体操界はおかしなジャッジや選考があったのです」、千恵子が苦笑する。2年前のパワハラ騒動の背景には、当時からの人間関係や妬みの歴史が絡んでいるという。

「私の“運”を光男さんにあげたような感じです」

 千恵子が笑う。光男は、トランポリンにヒントを得た新しい技の開発に取り組み、72年のミュンヘン五輪前に完成させていた。当時の体操界には、回転と捻りを組み合わせる発想がなかった。

 それが世界をアッと言わせた“月面宙返り”だ。正式には「後方かかえ込み2回宙返り1回捻り」。いまも世界中で「ツカハラ」の名で呼ばれ、多くのフィニッシュの原型に使われている。

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