巨人「呂明賜」、中日「近藤真一」、日ハム「木田勇」…球史に残る“一発屋”が放った輝きは強烈だった

スポーツ 野球 2020年10月6日掲載

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 ギャグやヒット曲を生み出して一世を風靡しながらも、その後が続かなかった、いわゆる「一発屋」と呼ばれる芸人や歌手は少なくない。もちろんプロ野球の世界にもそんな一発屋がいる。その最たる存在が1986年にドラフト1位で愛知・享栄高校から地元の中日に入った左腕投手・近藤真一だろう。

 近藤はプロ初登板となった87年8月9日のナゴヤ球場での対巨人19回戦で「初先発ノーヒットノーラン」を達成。それまでプロ入り初勝利をノーヒットノーランで飾っていた広島の外木場義郎を上回る前人未到の、今に至るも唯一無二の快記録を樹立した。

 この快挙の陰には一つの伏線があった。

 当時、中日を率いていたのは「燃える男」星野仙一。現役時代はもちろん監督となってからも誰よりも「打倒巨人」に執念を見せていた闘将だ。しかもこの時、首位巨人を2.5ゲーム差で追う中日にとって大事な直接対決の3連戦。1勝1敗で迎えた第3戦だっただけに絶対に負けられない1戦だった。

 ところが星野は熱くなるあまり、第3戦の先発を予定していた江本晃一を第2戦に投入してしまい、第3戦を任せられる投手がいなくなってしまった。そこで苦肉の策として星野が採ったのが2日前の7日に1軍に引き上げたばかりのルーキー近藤の先発だった。本人に先発が言い渡されたのは試合開始の2時間前。近藤が緊張しないようにとの星野の配慮だった。

 こうして始まった試合は「何とか5回まで持ってくれれば」という星野の思いとは裏腹に、近藤の快投が続く。原辰徳、クロマティ、吉村禎章、駒田徳広らが顔を揃える強力打線を力でねじ伏せ、9回2アウトまで出したランナーは2つの四球と1つの失策による3人だけ。そして迎えた最後のバッターが後に近藤自らが「もし(ヒットを)打たれるとしたら篠塚さんだろうと思っていた」といっていた篠塚利夫。その篠塚からカーブで見逃し三振に切って取り、偉業を成し遂げた。

 さらに近藤は8月16日の広島戦(6回3分の2を投げ2失点で勝利投手)を挟んで23日の阪神戦に先発し、5回の岡田彰布のヒット1本に抑える完封勝利。それも当たり損ねの打球が2塁後方にポトリと落ちる近藤にとっては不運としかいいようのないヒットで、翌日のスポーツ紙が「限りなくノーヒットノーランに近い完封」と書いたほど。もし、その打球がヒットにならなければプロ入り初登板から3試合で2度のノーヒットノーランという誰も真似できない、とてつもない記録が生まれていたはずだ。

 しかし、プロ野球の投手としてこれ以上はない最高のスタートを切った近藤ではあったが、1年目は巨人戦のノーヒットノーランを含め11試合に登板して4勝5敗。翌年はオールスター戦まではローテーションの柱として7勝を挙げてチームを支えたものの、その後は左肩や左ひじなど数々の故障に見舞われ、1勝をマークしただけで24試合8勝7敗という成績に終わった。

 しかも89年以降も故障が癒えることはなく、未勝利のまま93年限りで引退、1軍、2軍のピッチングコーチを経て現在はスカウトとして活躍している。

 ちなみに、長い歴史を誇るメジャーリーグでも初登板ノーヒットノーランを達成したのは1953年5月6日にブラウンズのボボ・ホロマンがアスレチックスを相手に記録した1例があるのみ。そのホロマンにしても同年7月19日にマイナーに降格しメジャーに再び上がってくることはなかったという。洋の東西を問わず快挙を達成した選手は、短命で終わるのが運命なのかもしれない。

 もう1人、今もファンの胸に焼き付いているのが横浜一商(現・横浜商大高)、日本鋼管を経て79年のドラフト1位で日本ハムに入団した木田勇だ。

 ルーキーイヤーとなった80年、木田の活躍はすさまじく、まさに快刀乱麻の言葉がふさわしかった。威力のあるストレートと大小2種類のカーブ、そしてパームボールを武器に40試合に登板して、22勝8敗4セーブ、防御率2.28、225奪三振、勝率.733を記録。最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と投手部門のタイトルを総ナメにするとともに新人王、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞、さらには新人選手としては史上初めてMVP(最優秀選手)も獲得した。まさにこの年80年は、木田のためにあったといってもいいだろう。

 その後も大いに期待された木田だったが、凋落は早かった。翌81年こそ2ケタの10勝を挙げたが、前年の活躍には遠く及ばず、以後6勝、4勝、6勝、2勝と成績は落ちるばかり。そして、大洋に移籍した86年に8勝をマークしたものの、それ以後はさしたる活躍を見せることもなく90年の中日を最後に現役を引退した。

 当時日本ハムの監督を務めていた大沢啓二は、後年、木田について聞かれると、

「1年目にあれだけの活躍をしていれば、当然、疲れも相当溜まっていたはずだ。シーズンオフにはそのメンテナンスをちゃんとやって翌年に備えなくいけないのに、木田にはそれができなかった。2年目はオープン戦の時から悪い兆候が見えていてヤバいなあと思っていたよ。案の定、1年目のあの球のキレは結局戻らなかった。あれだけの素質を持っていたピッチャーが惜しいよなあ」

 と語っていたものだ。木田のプロ11年間の通算成績は273試合に登板し、60勝71敗6セーブ、防御率4.23.1年目の成績からすると何とも寂しい限りという他ない。

 今、2人の投手を紹介したが、野手も1人挙げておきたい。88年~91年に巨人に在籍した呂明賜だ。台湾の文化大学からドラフト外で入団した呂は、当時の野球界のルールが出場登録のできる外国人選手を1球団2名までとしていたため、元メジャーリーガーのクロマティとガリクソンのいた巨人では1軍に上がれず、1年以上もの間ずっと2軍暮らしが続いていた。

 ところが、そんな呂にチャンスが巡ってくる。89年6月13日、クロマティが死球で右手小指を骨折、登録を抹消されたことに伴い1軍に昇格したのだ。そして翌日の14日のヤクルト戦に6番ライトで先発出場すると、呂は第1打席で、それまでの鬱憤を晴らすように先発のギブソンから先制の3ランホームランを奪うという華々しいスタートを飾って見せた。

 これ以後、極端な前傾姿勢から大きなフォロースルーで繰り出すパワーあふれるバッティングが炸裂。デビュー17試合で10本塁打をマークして一躍時の人となり、ジュニアオールスターとオールスター戦の両方に出場した他、新聞や雑誌テレビがこぞって呂の特集を組み、さいとうたかをの劇画「呂明賜がゆく」が週刊誌に緊急連載されるなど、ニューヒーローの登場に日本全国が湧き立った。

 しかし、呂が瞬く間にスターとなったように輝きを失うのも一瞬だった。内角のストレートに弱いという欠点を見抜かれると、相手投手に徹底的にそこをつかれ、最終的には79試合で打率.255、16本塁打をマークするにとどまった。そして、翌89年には外国人枠の関係で再び出場機会に恵まれなくなり、18試合で2本塁打を記録するのみ。そればかりか、最大の理解者として呂を公私にわたってバックアップし続けていた最大の理解者・王貞治が監督を辞任するという、呂にとっては大きな不幸も重なり、90年は7試合、91年は9試合に出場し、いずれの年も0本塁打に終わって91年限りで退団した。

 通算本塁打はわずか18本。活躍した期間もわずか数カ月にすぎなかった。しかし、一瞬だったにせよ、これだけ騒がれた選手は呂を置いて他にはいないだろう。その意味で記憶に残る名選手といえるかもしれない。

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集