妻のオナラに二人で笑えるようになった日──在宅で妻を介護するということ(第9回)

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縟瘡をねじ伏せた日

 身体の方は、この3カ月間で大きな前進は見られなかった。両脚は自分の力ではピクリとも動かず、朝起きぬけは棒のように硬直して重かった。毎朝、おむつ交換の前に軽く自己流のリハビリをして血行を良くし、足首や膝をぐるぐるまわして関節を柔らかくするのだが、力加減を間違うとポキッと折れてしまいそうでこわかった。寝る前に左右に足を少し開くと、翌朝毛布をめくった時の両足の間隔は全く同じだった。

 脚に比べると、腕には明るい兆しが見えた。両腕ともに可動域が広がり、30度くらいまでの上げ下げが自分の意志でできるようになっていた。1月から週2回(月・木)、訪問リハビリテーション(約40分間)を入れた成果が表れたようだ。ただ指が動かない。右手はかろうじて開くが、左手は貝のように固く閉じたままだ。脳梗塞の後遺症の人によく見られるように、握った状態のまま内側に曲がっている。物を持ったりつかめるようになるにはかなりの時間がかかりそうだった。

 当時、私が一番心配したのは、甲が反り返ったようになった右足である。これを「尖足(せんそく)」という。脳卒中の後遺症で、あるいは長期療養中に掛け布団の重みでもこうなってしまうと人もいるとか。俗に“バレリーナ足”というが、トゥシューズを履いてつま先立ちする格好そのままに足先が曲がってしまった。このままでは靴を履くこともできない。

 縟瘡(じょくそう・床ずれ)との長い戦いがようやく終わろうとしていたのに、またしても難敵現わるといった感じだった。

 思えばこの3カ月、“にわか介護士”となった私の根性を試すかのように、しつこく何度も闘いを挑み続けてきたのが縟瘡であった。寝たきりになり、体重で圧迫されている場所の血流が悪くなったり滞ることで、皮膚の一部が赤い色味をおびたりただれたりする。一度できてしまうと当分治らない。

 縟瘡予防は病院や介護施設でも重要な課題となっており、私は仕事を通じてその恐ろしさを知っていた。「在宅」を始める前の大きな不安材料でもあった。だから、ベッドのマットレスがエアーからスプリングに変わり、家に戻って1週間後に仙骨(お尻の骨の一番尖った部分)が赤く擦り剝けていたのを発見したときのショックは大きかった。

 玄関口の雑草を放置したままの寿司屋に入る気はしない。「褥瘡は介護品質のバロメーター。介護者が手抜きをしない限りできることはない」と頑なに考えていた私は、いきなり“在宅失格”の烙印を押されたような気分になった。下の世話も、食事も、服薬も、着替えも、所詮はそのレベルと思われてしまうのがイヤだった。

 しかし、できてしまったものはしようがない。以来、おむつ交換の度に仙骨部に治療用のクリームを塗り、排尿・排便が患部に接触しないようこまめに尿取りパッドを交換し、体圧を分散するため片側の背中にクッションを挟むなどして、発赤部分が深くならないように細心の注意を払った。

 それでも2カ月くらいは、良くなったかと思えばまた悪くなる。褥瘡との闘いは持久戦に入り、一進一退を繰り返した。

 傷口に真皮が形成され、看護師から軟膏をやめフィルムを貼るだけでいいという指示が出たのが4月3日のこと。その日の介護日誌には赤ペンでこう大書されている。「やった! ついに縟瘡に勝ったぞ。ざまあみろっ!!」──このときは誇張抜きに勝利の快感を覚えたものだ。今も仙骨部には、白く変化した激戦の名残りがある。

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