北島康介が明かす「何も言えねえ」の舞台裏 ジレンマの先に見えた「理想の泳ぎ」(小林信也)

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平泳ぎの宿命

 つい最近、東京都水泳協会会長に就任したばかりの北島に確かめると、「その表現は少し違うかな」と言って、詳しく話してくれた。

「身体が強くなって力むと、抵抗が生まれて泳ぎが硬くなる。身体も沈みます。逆にトップスピードに乗れた時は力感がなく、水当たりが心地よく感じられます。この繊細な皮膚の感覚がすごく重要な水泳の技術だと感じています。だけど1回できてもなかなか続かない」

 この微妙な技術の核心がどこにあるのか? 北島は探しあぐねていたのだ。

「平泳ぎは、0と100の繰り返しです。バーッと両手でストロークした後、必ず一度止まる。足を引き寄せる時、どうしても一定の停止時間が生まれます。それが平泳ぎの宿命です」

 止まる? でも水の中で進んでいるわけですよね?

「いえ、止まるんです」

 北島は強く主張した。

「できるだけ、止まる瞬間を短くしたい。だけどこの“抜け感”が、速く泳ぐにはどうしても必要なのです」

 一瞬でも早くゴールしたい。なのに、ストロークの数だけブレーキをかける必要がある。水泳選手にとって、究極のジレンマ。

「金メダルはもちろん目標です。でも、相手との勝負は二の次で、自分の記録を追求する面白さが先です。水の抵抗を減らして、自分の力を水にどう活かしていくかの探究心。水に入ると音が聞こえなくなる。無になる、自然と集中に入っていける世界です」

 そんな水中で北島は、人知れず自分との闘いを懸命に繰り返していた。そして、

「綺麗なストリームラインで身体を一直線にするのが大事だと気づきました。2008年の北京五輪ではやわらかい泳ぎができました。真っすぐなストリームラインで水の抵抗を最小限にして100メートルを泳ぎ切った。理想の泳ぎができました」

 レース直後、4年前は「超気持ちいい!」と叫んだ北島が、その日は涙をこらえ、「何も言えねぇ」とつぶやいた。感無量。それは、0と100のジレンマを乗り越えた感慨だった。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2020年9月3日号掲載

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