男を凌ぐ女性経営者たちの栄枯盛衰…時代を作った「強い女たち」列伝5

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「妊娠すればモニターができなくなる」から子供を作らず

 何しろ森部が、「ナプキンが売れたら、俺のカルマン・ギアをくれてやる」と言うのだから課長も必死である。

 それまでは脱脂綿を股間に当て、絶えず「漏れ」の心配をし続けてきた女性たちにとって、水洗トイレに流せるナプキンの登場は、朗報という以上に一つの福音であった。

「アンネの日」「泳げるアンネ」など、次々に繰り出す広告も話題をさらい、「アンネナプキン」は売れに売れた。「アンネ体操」などという奇妙な体操まで作られ、大塚清六のイラストも大評判となった。アンネのイメージが強すぎて、この人のイラストは他で使えなくなってしまったほどだ。

 20代後半にして、従業員500人近くの大企業の社長となった坂井は、「自分自身が一番のモニター。妊娠すればモニターができなくなる」という理由で、子供を作らないことに決め、会社では常務である夫を「坂井くん」と呼んだ。

 が、栄華は長くは続かなかった。マーケティング部長を務めた加賀靖一郎によれば、

「最初のつまずきは、薬事法違反でした。二つ折りにして個袋に詰めるのに、指定工場でしなければならないのに農家に下請けに出したのです。よせばいいのに、他でもやっているじゃないか、と反発したら営業停止を食らいました。生産が間に合わない時でしたから痛かったですね」

 これが昭和39年のこと。46年には親会社のミツミ電機が不況の煽りで業績不振に陥る。本州製紙とライオン歯磨、東レの3社が肩代わりすることになり、坂井は後に代表権のない会長に棚上げされ、やがて「アンネ」ともども消えていくのである。

「その後の話し合いでライオンが株を買い取ったのは平成5年のことです。泰子さんは46年に会長に就任し、59年に相談役になっています。ご主人の秀弥さんは『ピップフジモト』に行きました。相談役を退かれてからは、泰子さん、どこにもお顔をお出しにならないですね。お願いしても、社員の同窓会や冠婚葬祭にも出てきてくれません」

 泰子・秀弥夫妻による「仲人第1号」だという加賀は、そう言いながら、ちょっぴり淋しそうである。

東洋人で初めて『パリ・オートクチュール組合』のメンバーに

 東京・北青山の「ハナエ・モリ」ビルで会った森英恵(75)は、巨大なコングロマリットに成長した『ハナエモリ』グループの会長である。しかしながら彼女は、自分は経営者ではないと繰り返す。

「経営は彼(夫の森賢)任せなんです。ビジネスは好調でしたが、この仕事を始めて2年目に税金がかかってきて、どう処理していいか困って、その時、彼が見てくれたんです。“バカだな”と言われました。その時、ビジネスになる面白そうな仕事だと彼は思ったらしいんです。それで、気がついたらいつの間にか彼が社長で、私がデザイナーということになったんです」

 大正15年、島根の医者の娘に生まれた森英恵は、東京女子大を卒業後、ドレスメーカー女学院に通い、昭和26年、新宿に洋裁店『ひよしや』を出す。これがデザイナー森英恵の原点である。

 29年、日活映画『かくて夢あり』の衣装を担当したのを皮切りに映画の衣装を担当し、36年に渡仏して40年にはニューヨークに進出。52年には「ハナエ・モリ・パリ」を開店、東洋人で初めて『パリ・オートクチュール組合』のメンバーになる。

「パリでオートクチュールの会員になったのも、その頃女性が少なかったということもあったのかもしれませんね。それまでの婦人服はデザイナーも男なら、お金を払うのも男だったんです。パリも男社会で、自分のプレステージのために奥さんにオートクチュールを着せるということだったんですよね。

 日本でも女が職業を持つというのは、よいイメージをもたれていなかった。大学を出たらアーチストになりたいと思っていたけど、医者ならいいが、どうやって食べていくんだと父に言われました」

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