掃き溜めのツル「八頭身美人」の登場…強い女列伝2

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ミス・ユニバースに挑戦すること4度

 この頃、やはり八頭身の美女であった姉の和子に、産経の高知支局が大会への出場を促した。自社イベントを盛り上げるべく、産経は血まなこになって参加者を探していたのだが、和子は出たくないと言い張り、妹の明子に「代りに出てよ」と水を向ける。ファッションモデルを目指していた明子には、姉の勧めは大きなチャンスに思えた。

 昭和28年、16歳の彼女は、四国代表として東京の決勝大会に出る。しかし、そこには強力なライバル、伊東絹子がいた。甲乙つけ難く、審査員の意見も真っ二つに割れたが、結局、明子は涙を飲んだ。

「あなたは、あまりに年が若すぎるというだけで2位にした。実のところ、これほど優劣をつけるのが難しかったことはない。来年はきっといらっしゃい。私たちはあなたを待っています」

 審査委員長の川口松太郎はそう言って励ましたが、奈良支局の推薦を得た翌年は予選落ち。33年には日本代表選出大会の直前に交通事故に遭い、今度は不戦敗という不運。

 16歳だった彼女もだんだん年を取ってきた。悔しかったであろう。焦りもしただろう。ミス・ユニバースに挑戦すること4度――児島明子は、飽くなき執念によって遂に栄光の座に就いたのである。

〈各国代表の人の美女たちのなかから、児島明子さんの黒髪のうえに、黒真珠の王冠がサン然と輝いたのだ。ロングビーチの会場を埋めた観衆の嵐のような拍手に「サンキュ、サンキュ」と答える児島さんの頬には感激の涙がいく筋も流れていた〉(同)

 彼女の消息を伝える記事はいくつかある。15年前の「週刊宝石」の見出しはこうだ。

〈宝田明と離婚した元ミス・ユニバース 前夫の醜聞にもめげず、娘を芸能界に!(ザ・消息――脚光のあと、視界から消えた人々)〉

 その「週刊宝石」も我々の視界から消えたいま、彼女は一体どうしているのだろう。

前夫である宝田明は…

「主人と離婚してから、どんなお話もお断りしているんですよ。もう60も半ばですし、こんなおばあちゃんですから。昔と違って色々なことで男女が平等になって、いまでは男性の上を行かれる方だって、たくさんいらっしゃいますでしょ。私なんか、ただテレビの前で田中真紀子さんなどを応援しているんですのよ」

 ここで、前夫である宝田明にご登場願おう。

「(受賞後の会見で“可愛い奥さんになりたい”と言ったのは)あれは、小さい頃からの彼女の夢だったんですよ。世界一になって冠をもらったけれど、女の本当の幸せはと訊かれた時に“可愛い奥さんになりたい”というのは、やっぱり素直な夢だったんじゃないでしょうか。会場となったロングビーチに新婚旅行で出かけ、オーディトリアムに行った時、掃除をしている管理人の人が“オー、アキコ、ワーオ!”って言ってねえ。憶えていてくれたんだなあ。彼女も感激していましたよ」
 
 宝田明はミス・ユニバース日本大会の司会を9年間続けた斯界の功労者でもある。

 その間のミスの中で最も有名なのは、43歳になったいまも美しい萬田久子であろう。

 大阪の下町生まれの彼女は、「吉本をBGMに育ち、『JJ』の心斎橋篇にも載ったりした」という、おキャンな短大生だった。しかし、可愛がってくれた叔母が春休みに応募用紙を持ってきたことで彼女の人生は一変する。その年、すなわち昭和53年のミス・ユニバース日本代表に選出されたのである。

「ミス・ユニバースというと伊東絹子さん、児島明子さんという印象ですね。確か伊東さんから八頭身美人という言葉が広まったんですよね。うちの母親とおんなじ年で、しかも、その当時の母は伊東さんと身長やサイズが全部一緒だったんです。伊東さんが出てきてからは同じサイズだというのが自慢で自慢で、真似てポーズをつけて水着で撮った写真まであるんですよ」

 してみれば、やはり八頭身というのは血なのであろうか。調布のロケ先で会った彼女は、見たところ、九頭身くらいに見える。実物は、やはり凄い。

 しかし、当の本人は何の屈託もなく話し続ける。

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