「元・遊廓」に生まれて―― 子孫が打ち明ける複雑心中

国内 社会 2020年7月17日掲載

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 収められた写真を見た人は感嘆しつつも、心配になるのではないだろうか。

「これ、出して大丈夫なの?」と。

遊廓』(渡辺豪・著)には、著者が全国で撮影したかつての遊廓の外観と内部の写真がふんだんに収録されている。廃屋もあれば、別の用途で使われている建物もある。

 かつて日本各地には俗に「遊廓」と呼ばれる、公然と売春を営む街があった。昭和33(1958)年4月に「売春防止法」が施行されたことで、約3万7000軒もの「遊廓」は消滅したが、いわゆる娼婦を置いて営業してきた娼家の建物自体は残り、転業して旅館となったものもあった。

 しかし60年以上が経って、そうした建物自体、ほとんどが取り壊されて失われた。このままでは遊廓が存在した歴史や、そこに生きた人々の記憶さえも消えてしまう。

 こうした日本の「影」の遺産に、嫌悪感を示す方もいるかもしれない。しかし、かたちとして記録しておくべき意義があるのではないか。

 そう強く思う渡辺氏は全国各地に散在する遊廓の撮影をライフワークとし、約10年で500カ所内外の娼街を撮影のために訪れてきた。

 多くの建物は今も「現役」。もちろん遊廓ではないが、何らかの形で利用されている。

 となると現在の住人は、かつてそこがそういうふうに使われていたということは、あまり知られたくないことなのではないか。できれば隠したい、子孫には伝えたくない。そう考える所有者がいてもおかしくはない。そこを考えるとつい「大丈夫なの?」という疑問が浮かぶはずだ。プロアマ問わず、写真撮影のトラブルは多い。盗撮はもちろんのこと、イベントや鉄道などでも撮影者のマナーがしばしば問題視されてきた。

 そのあたりの疑問をぶつけてみると……、

「室内の撮影や掲載にあたっては、必ず現在の所有者の方に許可をいただいてからにしています。よく『怒られたりしないのか?』と心配されたり、興味本位で聞かれたりするんですが、実はむしろ持ち主の方が快くご協力くださった記憶のほうが多いんです。

 ただ、もちろんいきなり訪ねていって『さあ、どうぞ』となるわけではありません。

 しかし、何軒も訪ねていくうちに、自分が本当に遊廓が好きだということを丁寧に説明すればご理解いただけるのだな、と感じています」

「元・遊廓」に生まれた家族たちの“想い”とは

 相手が怒っていたこともある。もっとも、その理由は意外なものだった。

「売春防止法施行から60年以上経っていますから、当時の経営者はほぼ他界しています。その家の所有者もすでに売春営業とは何の関係もない孫世代の方でした。

 その方がすごく憤慨していたのですが、理由は『最近ここが女郎屋として紹介されたことがある。ここは遊廓だ。自分の爺さんや婆さんの遺してくれたこの建物を、女郎屋だなんて』ということでした。

 つまりこの方は『格式』を問題視していたわけです。格式の高い遊廓が、格式の低い女郎屋扱いされたことにお怒りだったのです」

 渡辺さんは、経営者の子孫との出会いを繰り返すうちに、彼らは「語るべき言葉」を持っている、ということに気づいたという。

 そうした尊敬の念は相手にも伝わる。ある経営者の末裔は、上手に来意を伝えられない渡辺さんに「まぁそんなに遠いところから来たんだから、まず茶でも」と家に上げてくれた。

「売春防止法のために、自分の祖父母や親、あるいは自分自身が社会から白眼視された無念さを持っている方も多い。だからこそ、私のように本気で遊廓が好きな者には胸襟を開いてくださるのかと思います」

消滅間際の「遊廓」 その記憶を遺すために

 そこまで遊廓にほれ込むのはなぜか。

「こうした元経営者の家族や子孫の声を聴けたことで、その想いに多少なりとも触れることができたと思っています。最初は、遊廓建築を撮影して記録として遺したいという私自身の願いから始まったわけですが、いつしかこの方々の想いや記憶も含めて、娼家を記録していきたい、と強く思うようになりました。

 遊廓といえば、小説であれノンフィクションであれ、娼婦にのみ光が当てられます。その陰で、経営者側の家庭にたまたま生まれてきただけの家族や子孫の声は、取りこぼされてきたのかもしれません。

 さらに時代が下って世代交代すれば、往時からの記憶や感情はますます薄くなっていき、私に語ってくれたような言葉ももう聞けなくなるでしょう。せめて写真を撮らせてもらうことで、想いを繋げていけたらと願っています」

 渡辺さんの撮影した元遊廓は、往時を偲ばせる贅沢な内装を残しているものもあれば、そう言われなければ絶対わからないような壊れかけた家もある。ただ、ひとつひとつを見つめてみると、遺されたタイルの一片にも、そこに生きてきた人たちの「想い」を感じられるのではないだろうか。

デイリー新潮編集部