「成り上がり」と「落ちぶれ」が生む毒親――中国史上唯一の女帝・武則天の毒親

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落ちぶれママと成り上がりパパを持つ武則天

 則天武后とは高宗の皇后の地位を重視した呼び方で、皇帝としての彼女を評価しようとする最近の中国では「武則天の呼称でよばれることが広まった」(※1)そうなので、ここでは武則天と呼ぶことにします。また、彼女はその時どきの地位により呼び名も変わりますが、武則天で統一します。

 この武則天が、中国史上、唯一の女性皇帝であるのは有名な話です。

 彼女の治世下は安定していて、人材登用も盛ん。父母の服喪も統一するなど男女平等を目指し、州ごとに大雲寺(大雲経寺)を設置して仏教の普及に力を入れるなど、その功績が最近では評価される傾向にあります(※1)。

 とはいえ、武則天といえば、権勢のためには、邪魔になった夫の妻たちや政敵ばかりか、子や親族まで殺した悪女として長年、貶められてきました〈系図〉。

 話の出所は、中国の歴史書『資治通鑑』(1084年)。それによると、皇后になりたいがために、生まれたばかりの我が子を殺したと言われます。

 皇后の座を狙っていた武則天は、当時、皇后だった王氏が出産の見舞いに来た直後、我が子を殺すことで、王皇后にその罪をなすりつけたというのです。『資治通鑑』の成立は武則天の死後300年以上経っているし、私はあやしい気がしますが、彼女はその後も実子をはじめとする多くの親族を殺したと伝えられ、『資治通鑑』によると「自分の血筋につながる人だけでも二十三人を殺している」(※2)というんですよ。

 でも。

 こうした残虐行為のほとんどは『資治通鑑』の伝えるもので、正史の『旧唐書』(945年)にはない話が多いことからして、悪意に満ちた男目線の創作ではないかというのが私の考えです。

 伝えられる武則天の悪行の多くは、桀・紂や日本の武烈天皇(※3)のように、王朝を途絶えさせた王は妊婦の腹を割くなど、暴君として描かれるのと同じようなものではないか。そこに男尊女卑の思想が加わって、権勢のためには乳児を殺すだの、巨根好きだのといった貶めが加味されたのではと思うのです。

 だとしても、すでにいる皇后を廃して自らが立つとか、三男の李顕を15年も幽閉したというのは『旧唐書』にも伝えられる史実で、彼女が度外れた権勢欲と激しい性格の持ち主であることは確かでしょう。

 こうした激しい性格は、そのつらい生い立ちが関連すると言われます。

 武則天の母の楊氏<ようし>は40過ぎの高齢で武氏の後妻となって娘を3人生みました。夫にはすでに成人に近い年齢の先妻腹の息子たちがいましたが、「彼らはいっしょになって、陰に陽にこの楊氏たちを邪険にあつかった」といい、結婚15年目に夫が死ぬと、とくに勝ち気な次女の武則天が「とりわけきついいじめを加えられた」(※1)。

 なぜ、そんなにも、武則天の異母兄たちは継母に当たる楊氏や、彼女の生んだ異母妹たちにつらく当たったのでしょう。

 異母兄たちのいじめの原因は、後妻である楊氏との甚だしい身分差にあります。

「隋室の流れをくむ楊氏と、山西の田舎に出た彼らとでは、家柄において天と地ほどの差がある。日ごろそれを鼻にかけ、お高くとまった楊氏を、彼らが面白く感じるはずはない」(※1)

 武則天の母の楊氏は名門の令嬢で、父の武氏は田舎者の成り上がりだったのです。

 落ちぶれた母と、成り上がりの父と。

 これって、エリオットが家族殺人を犯す子供の家庭として挙げる条件が、一つの家に揃ってしまった、ということですよね?

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