カネやん追悼秘話 ロッテ監督時代、映画「さすらいの航海」を見て泣いた理由

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 10月16日、カネやんこと金田正一さんが、敗血症のため86歳でこの世を去った。元スポーツ紙記者の庄司憲正氏は、ロッテ担当時代、カネやんを文字通り“間近”で取材した経験の持ち主だ。当時の秘話を語り尽くす。

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 私は見た! カネやんの涙を。1977年(昭和52年)、カネやんがロッテ監督に就任して5年目のことである。当時、パ・リーグは2シーズン制。前期の覇者は黄金時代を迎えていた上田利治監督率いる阪急ブレーブスで、ロッテとは後期の大詰めでデッドヒートを繰り広げていた。もしロッテが後期優勝を逃せば、阪急はプレーオフなしで日本シリーズに駒を進めるという状況だった。

 この時、ロッテは飛び石日程の中、1週間ほど仙台に滞在していた。激情家のカネやんは極度の興奮状態。「現役時代よりも、2度の監督時代のほうが苦労した」――本人は、のちにこう振り返っている。そんなカネやんとチームを相手に、我々ロッテ担当記者は密着同行し、「今日はどんなカネやん節が聞けるのか?」を取材していたのである。

 その日も、宿舎のロビーに降りてきたカネやんのもとに記者たちが集まり、耳を傾けた。カネやんの第一声は、「さあ、映画鑑賞や。すぐ行くで!」。びっくり仰天する記者たち5、6人を引き連れ、カネやんは仙台プラザホテル近くの映画館へと赴いた。

 もっとも、独特のマスコミ向けスキンシップをしてくれる人ではあった。たとえば、記者たちをバッターボックスに立たせ、「ワシが投げるから、順番に打ってみいや。束になってかかってこい!」「お前らは“プロが泣く、無様なKO”なんて書くけれど、ワシの球を打てばプロのレベルを知って勉強になるんや」と言い出したことも。私も一度だけ打席に立ったことがある。当時、カネやんは40歳を超えてはいたけれど、400勝投手の球はすごかった。カーブなし、オール直球だったが、私はカスリもせず三球三振だった。長嶋茂雄さんのデビュー試合で4連続三振を奪ったのはこの球か……と興奮したのを覚えている。

 ワンマン監督と言われながらも、自腹をはたいて高級料理を選手にふるまう。表面的な威圧感より、裏で山盛りの優しさと、人情家の素顔を発散する人だった。そんなカネやんだったが、さすがに「映画鑑賞」は前代未聞の行動だった。観たのは英国映画『さすらいの航海』(1976年)。監督はスチュアート・ローゼンバーグで、キャストはマックス・フォン・シドー、フェイ・ダナウェイ、オスカー・ウェルナーら。遅れての地方上映が、この時期に重なったのだ。

 カネやんがイギリス映画を観る? 優勝争いの合い間の休息を求めたか、それとも担当記者向けのサービスか? いぶかしがりながら映画館に来た記者たちは、カネやんを真ん中にして、最後列の席で横一列に座った。私はカネやんの左に座った。

『さすらいの航海』は、第二次世界大戦前夜、ナチス・ドイツからの亡命を願う客船「SSセントルイス号」の凄惨な漂流劇を描いた映画だ。ナチスの迫害から逃れようとした937人のユダヤ人が大西洋上をさまよった実話を基にしている。

 上映中から、隣のカネやんが鼻を「ぐすん」と鳴らすのを聞いてはいた。隣の席に座ったのも、アレコレ取材しようと考えてのことだったが、そこは映画館、マナーを守って黙っていた。そして上映が終わり、照明がついた時のことだ。立ち上がって「帰ろうか」とつぶやくカネやんの184センチの長身が、168センチの私を見降ろしている。その両眼に、涙が滲んでいたのだ。

 帰路につく時にはいつもの陽気さを取り戻し、担当記者の間で涙に気づいた者は私だけだった。定宿に向かう途中、カネやんが『さすらいの航海』を見て泣いた理由を考えていた。

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