長岡花火で戦争について考えた(古市憲寿)

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 新潟の「長岡まつり大花火大会」へ行ってきた。日本三大花火の一つだ。

 実は長岡花火を訪れるのは2回目。前回もその規模に驚かされた記憶がある。しかしその後に沖縄で開催された、安室ちゃんの曲に合わせた花火ショーと比べて、テレビで長岡花火をディスってしまった。それが炎上。

 長岡花火財団に怒られるかと思ったら「花火は炎上させるものではなく、打ち上げるもの。また来て下さい」と大人の対応をしてもらった。というわけで、今年は新潟放送の番組「水曜見ナイト」ゲストとして花火大会を観てきた。一見しっかり者の伊勢みずほさんと、顔が真っ黒に日焼けした一見チャラそうな男性アナウンサーらで進行する地元の人気番組らしい。

 呼んでもらったからには、ちょっと真面目に長岡花火のことを考えてみる。花火大会の歴史は古く、1879年に遡る。遊郭関係者がお金を出し合い、350発の花火を打ち上げたのが始まりだという。しかし1938年に、戦争で中止。1947年から、長岡空襲の慰霊の祈りを込めて復活した。新潟中越地震を受けて、2005年からは復興祈願花火も打ち上げられ、慰霊と復興が大会の一つのテーマとなっている。

 かつて『誰も戦争を教えられない』という本の取材で世界の戦争博物館を巡ったことがあるが、日本は積極的には戦争被害を後世に残そうとしてこなかった国だ。広島の原爆ドームなどを例外として、多くの街で戦争の痕跡は開発の波に飲まれてしまった。

 戦後すぐは経験者が大勢いたから、戦争の記憶は自然に継承された。しかしどんどん経験者は減っていく。そこで慌てて日本中に建てられたのが戦争博物館だ。だが箱物には限界がある。経験者の声や、原爆ドームなどの「本物」に比べて、迫力不足は否めない。

 戦争の記憶を花火で残すのは一つの方法だと思った。いくら上から目線で「戦争を忘れるな」と言っても、古くなる一方の出来事を、いつまでも生々しく覚えていることなど不可能だ。

 だが花火大会となれば話は別である。これだけCGやらVRやらが当たり前になった時代でも、とんでもない音と光で夜が輝く花火は世界中で人気だ。その中でも長岡花火は規模も大きく自然と人が集まる。集客に苦労している日本中の戦争博物館とは対照的だ。あくまでも自然に誰もが慰霊のイベントに参加し、戦争を想起するのだ。

 もしかしたら日本で最も人が集まる慰霊祭かも知れない。花火大会の時期は人口約27万人の街に、2日間で100万人以上が訪れる。夕方、新幹線で長岡駅に着くと改札口は長蛇の列。駅の外に出るだけでも10分近くかかってしまった。本当は宿泊もしたかったがホテルは一杯。新幹線も最終便はすぐに満席になってしまい、何本か前の便で帰らざるを得なかった。ホテルはともかくとして、この日くらいは新幹線も増発したらいいのにと思う。気が利かない。

 打ち上がったら消える花火。遺恨ではなく、その美しさとはかなさが記憶に残る。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2019年8月29日号掲載

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