ノーベル物理学賞受賞者も参加していた 日本の原爆製造「極秘計画」【戦争と日本人(1)】

社会2019年8月6日掲載

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 1945年8月、ヒロシマとナガサキに相次いで原爆が投下された。人類が初めて使用したこの大量殺戮兵器により、年末までに21万人以上が亡くなっている。が、アメリカが原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」に着手したのは、その4年も前だった。日本の真珠湾攻撃の前日に早くも動き出していたのだ。一方、日本にも秘密裡に2つの研究が進行していたのだが……。

 1944年6月、日本海軍はマリアナ沖の海戦で惨敗を喫し、空母、航空機の大半を失った。さらに翌月にはサイパン島が陥落。民間人の自決も含め、6万人以上が戦死していた。このころ、巷で囁かれた噂がある。「マッチ箱ひとつの量で、大都市を吹き飛ばせる新型爆弾が開発されている」――。それは新兵器を待ち望む国民心理の象徴と言えたが、実際にこの時期、2つの研究――「ニ号研究」と「F号研究」が進んでいたのだった。

「STAP細胞」で世間を騒がせた「理研」の前身の研究所

 前者「ニ号研究」は1943年6月ごろから始まっている。陸軍から依頼を受けた東京・理化学研究所の仁科芳雄研究室によって行われていた。ちなみに同研究所は、数年前、「STAP細胞」で世間を騒がせた組織の前身である。
 ノンフィクション作家・保阪正康氏は数多くの元研究員たちから、昭和50、60年代に話を聞いている(以下、〈〉内引用は保阪氏著『日本原爆開発秘録』より)。

〈(熱拡散法という)方式は、高温の内筒と低温の外筒の間にウランのガス化したものを入れ、上にあがってくる軽いガス(ウラン235を多く含む)を集め、この作業を繰り返すことで濃縮ウランを採る方法であった。(略)竹内(柾、のちの横浜国大名誉教授)は熱拡散法を行うために分離筒作りを始めた〉

 この「ニ号研究」に関わっていたのは、戦後、日本の原子物理学を牽引していくことになる人材ばかりだった。それは同時に「原発立国・日本」を推し進めた立役者でもあるのだが、そうした優秀な科学者たちが、戦時下にあって理論計算や実験、計測と分担し、原爆開発を行っていたのだ。

 ただし、日本の原爆開発には大きな障害があった。材料として欠かせないウランが、日本国内にはほとんど埋蔵されていない。そのためこのプロジェクトは、一方でウラン鉱石探しと並行して行われた。東條英機・首相兼陸相の命令で、南方の方面軍司令部にまでその通達は届いていた。国内では中学生たちが動員され、採石場で岩を掘り続けていた。

 1945年に入ると、先の竹内たちは高さ5メートル、幅50センチの分離筒を完成させている。分離筒から取り出した小ビンにウラン235が入っているか、検出テストが繰り返された。

〈サイクロトロン(円形加速器)によって発生した中性子線を濃縮ウランにあてれば核分裂を起こすはずであった。その際、放射線(主にβ線)が検出できれば、ウラン235は分離されていることになる。しかし、放射線は検出されない〉

 貧しい資材で研究、実験を続ける仁科たちであったが、空襲は日々激しくなっていった。3月の東京大空襲では一晩で10万人が死亡。研究員の多くが自宅を焼け出されている。4月には仁科の自宅が焼失し、研究資料が灰に。4月13日付けの研究員の日記にはこう記されていた。

〈(理研の)49号館を守る可(べ)く敢闘。23号館で休。(曙町自宅をみにゆく。完全に焼落ちてゐる。)夜があけて49号館の東側の壁が燃え出し、モルタルの裏で火が消えてなかったため。もう消火の元気なくただ見守る〉

 分離筒も焼失し、サイクロトロンも機能を失った。疎開する研究員も出始めていた。こうして「ニ号研究」は瓦解した。

ノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹も参加

 一方の「F号研究」は、海軍と京都帝大の荒勝文策研究室が進めていた。このチームには、4年後にノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹も参加していた。湯川は40歳手前であったが、すでに文化勲章を受けるほどの気鋭の科学者だった。

 ウラン濃縮には遠心分離法を採用し、「ニ号研究」より先を行っていた。ただし設計段階で終戦を迎えている。「F号研究」の名のもとに19人が名を列ねているが、原爆製造に直接関わりそうなテーマに取り組んだのはわずか5人に過ぎなかった。500万円(現在の約7億円)という莫大な予算を与えられ「原爆の製造に取り組んでほしい」と海軍は口にするが、それほど高圧的ではない。それよりも研究の自由を保障していたようだ。

「ニ号研究」の中止を受け、7月21日、海軍と研究チームが琵琶湖のホテルで話し合いの場を設けている。荒勝たち研究者は「理論的には可能だが、国力から考えると製造までは無理だ」と率直な意見を述べていた。京都には空襲もない。置かれた状況も異なっていた。

〈(同席した)K少佐によれば、海軍側と京都帝大側は、「もう少し前向きに考えて、現実を凍結しておきましょう」との、いわば大人の諒解という形を採って会議を終えた。陸軍と比べると、のんびりした雰囲気だった〉

 どこから調達したのか、海軍からは酸化ウラン130キロも届いていた。が、こうして「F号研究」も、曖昧ながら幕を閉じたのである。

 8月7日、理化学研究所の仁科芳雄は調査のために広島に向かった。道すがら、「ニ号研究」に携わった門弟に手紙を綴っている。この直前、アメリカ大統領トルーマンが声明で、「ヒロシマに使用したのは原子爆弾」だと発表していた。しかも「製造のため12万5千人が従事していた」という。

〈米英の研究者は日本の研究者、即ち理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである。これは結局に於て、米英の研究者の人格が49号館の研究者の人格を凌駕してゐるといふことに尽きる〉

 一方、京都帝大の荒勝も同じ日、焦土と化した広島に入っていた。同行した研究者によると、荒勝は〈一言も発せずに、じっとガレキの山を見ていた〉という。

デイリー新潮編集部