球場ライブに黄色い歓声や出待ちも! ジャズが大衆音楽だった頃

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 この夏も各地で音楽フェスが開催され多くの観客を集めている。フジロックやサマーソニック、あるいはロック・イン・ジャパン等、フェスというとどうしてもロック、ポップ、ダンス系のアーティストのものというイメージが強いものの、ジャズフェスティバルも根強い人気を誇る。人気の高い「東京JAZZ」は今年で18回目だ。とはいえ、ロックフェスと比べると大人しい印象があるのも事実。実際のところ、演奏中に観客が騒ぐことは滅多にないし、黄色い歓声が飛ぶようなことも少ない。

 しかし、実はかつてこの日本で、ジャズこそが最先端の大衆音楽だった時代もあった。日本ジャズの黎明期を描いた『秋吉敏子と渡辺貞夫』(西田浩・著)によると、その人気ぶりは現在のアイドル並で、ライブの盛り上がりはEDMのイベントのようですらある。何せ球場ライブまで行われていたのだ。著者の西田氏は、当時を知るミュージシャンらに丹念に取材して、黄金時代の雰囲気を伝えている。

 以下、同書から、ジャズの黄金時代の様子を見てみよう(引用はすべて同書より)

 サンフランシスコ平和条約が発効し、日本がようやく主権を回復した1952年。米軍から慰問ではなく、純粋に日本人のために、大物ミュージシャンが来日する。

 米国の大物ドラマー、ジーン・クルーパ率いるトリオだ。

「日本のファンにとって、これまでレコードでしか知らなかった本場の一流どころの生のステージに触れる初めての機会だった。翌年(1953年)には、敏腕プロデューサー、ノーマン・グランツが編成したオールスターバンド、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)がやって来た。エラ・フィッツジェラルド、オスカー・ピーターソン、レイ・ブラウンをはじめ、錚々(そうそう)たる顔ぶれで、羽田空港から銀座まで、オープンカーでパレードしたという」

 現代では、いかにスーパースターであってもパレードは考えられない。この年にはルイ・アームストロングも来日している。

 盛り上がっていたのは「洋楽」勢だけではない。日本人のジャズミュージシャンたちも負けない人気を誇っていた。

「53年、ドラマーのジョージ川口率いるビッグ・フォーが結成され、大旋風を巻き起こした。『レイモンド・コンデとゲイ・セプテット』の川口、小野満(みつる)(ベース)、『渡辺晋とシックス・ジョーズ』の松本英彦(サックス)、中村八大(ピアノ)という、人気バンドのスタープレーヤーが結集した、いわばスーパーグループで、絶頂期には後楽園球場や西宮球場でコンサートを開き、満員にするほどだった」

 インストの、しかもジャズの演奏のみのライブで球場が満員になっていたのだ。演出も派手だったようだ。実際に西宮球場でのライブを見たジャズ評論家の児山紀芳(こやまきよし)はこう述懐している。

「小野、松本、中村が登場した後、川口が野球の救援投手が乗るカートに乗って現れる。本塁、一塁、二塁、三塁のベース上付近にそれぞれの楽器が配置され、そこで演奏するという趣向でした。とにかく派手だったことを覚えています。当時の音響機器では満足に音は聞き取れなかったが、会場は熱狂の渦に包まれました」

 今年90歳を迎えたクラリネットの第一人者、北村英治も当時の盛り上がりをこう振り返っている。

「コンサートでは女性の黄色い声が響き、終演後は楽屋口に出待ちの女性ファンが押し寄せる。警備員がファンをかき分け、通り道を作ってくれ、僕らはそこを足早に進んでタクシーに乗るわけですが、その横から花束やぬいぐるみなどプレゼントを手渡してくる」

 もっとも、いつの時代もブームは去る運命にある。北村氏によれば、「50年代後半にロカビリーがブームになると、若い女性ファンはサーっといなくなってしまいました」とのことである。落ち着いてジャズを味わいたい人にとっては、それもまた良し、というところだろうか。

デイリー新潮編集部

2019年8月24日掲載

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