本場アメリカが「すごい」と最初に認めた日本人女性ミュージシャン

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 テレビのバラエティ番組でお馴染みの企画に「世界で有名な日本人は?」という類のものがある。国によって挙がる名前は多少ちがいはあるけれども、ヨーコ・オノ、坂本龍一、野茂英雄、安倍首相、渡辺謙、大谷翔平あたりがランクインの常連だろう。

 こういうランキングでは滅多に登場しないものの、半世紀近く前からジャズの本場、アメリカで高い評価と人気を博した日本人女性のミュージシャンがいる。

 ピアニストの秋吉敏子だ。

 上原ひろみなど、今となっては世界的な人気を博している日本人ジャズミュージシャンは珍しくなくなってきたが、秋吉がアメリカに挑戦したのはまだ渡航すら自由ではなかった時代。それだけにそのサクセス・ストーリーはとてもドラマチックだ。往々にして日本のミュージシャンが「海外で人気!」と報じられる際には、実は日本国内向けの仕掛けだった、というケースもあるのだが、彼女の場合はまったくそうしたものとは異なる。

 その成功の軌跡を『秋吉敏子と渡辺貞夫』(西田浩・著)をもとにご紹介しよう(以下、登場人物の発言など引用はすべて同書より)

偶然から始まった米国デビュー

 秋吉の米国デビューは、いまから半世紀以上昔の話。偶然が重なった結果だった。

 1953年10月、日本のジャズクラブの走りといっていい「テネシー・コーヒー・ショップ」が銀座にオープンした。店の昼の部でピアノを弾いていたのが秋吉だ。

 その店に11月、アメリカの有名なジャズミュージシャン、オスカー・ピーターソンがやってきて、演奏を聞いた。1曲終わって、2曲目を披露しているときに、ピアノに歩み寄り、「夜もどこかでやっているか?」。

 心臓が爆発しそうな思いで、秋吉が場所と時間を伝えると、自身、コンサートを終えたピーターソンが本当にやって来た。しかもピアノまで弾いてくれ、終わると「話があるから、明日午後、ホテルに来てほしい」と告げた。

 翌日、ホテルに行くと、ピーターソンは同行している音楽プロデューサーに彼女を紹介したうえで、そのピアノを絶賛し、「彼女のレコードを出すべきだ」と訴えた。

 プロデューサーも、「君が勧めるのだから、私があれこれ言うことはないだろう」とあっさり承諾。何とその場で話が決まり、来日中の錚々たるメンバーと1週間後にはレコーディングまでしてしまった。

 こうして、彼女の初となるアルバムは本当にアメリカで発売されたのである。

「米国に行ったこともないのにと、何とも不思議な気持ちでした」

 このことでもともと彼女が持っていた「米国に行きたい」という気持ちに火がついた。

 3年後にはバークリー音楽院に入学し、音楽を学びながら現地で演奏活動も行う日々を過ごすこととなる。また、そこでサックス奏者の男性と結婚。米国に定住するきっかけとなった。

 ここまではトントン拍子だったのだが、その後試練の時を余儀なくされる。

 1963年には娘も生まれるなど(のちの歌手、Monday満ちる)、慶事もあったものの、1965年には諸事情から離婚。しばらくは音楽の仕事とも順調とは言いづらい時代が続く。

「幼い娘を抱えての生活は簡単ではなかった。何より、ジャズ・ミュージシャンにつきものの、長期のツアーに出られないのは痛かった。遂にジャズを捨ててほかの仕事を見つけようと思い詰め、職業安定所に出向いた」

 何か技能を身に付けようと、コンピューター・プログラマーの養成学校に入学願書まで出したところで、まとまった収入が得られる音楽の仕事が見つかり、「やっぱり、私はジャズで生きていくしかないのかな」と思い直したという。それまで日米のレコード会社からコンスタントにアルバムを出していたのに、3年間ほどリリースが途絶えていた時期の話である。

 その後も日本のレコード会社からのリリースはあったものの、米国内では厳しい状況が続く。ただし、良いこともあった。1969年、サックス奏者のルー・タバキンと再婚をし、生涯の伴侶を得ることとなったのだ。そしてこの結婚が、大きな転機ともなる。

 70年代に入っても、商業的な成功とは程遠かった現状から彼女は、次第に家事や子育てに専念するようになる。引退すら考えていたが、夫のタバキンに「人のために弾く必要はないが、ピアノをやめるべきでない」と助言されたこともあり、毎日ピアノに向かうようにだけはしていたという。

 そしてある日、タバキンがこんなことを言い出す。

「君の曲を演奏するリハーサルバンドを作らないか。ロサンゼルスには本格的なジャズを演奏することに飢えている腕のいいスタジオ・ミュージシャンがたくさんいる。メンバーは僕が集める」

 こうして1973年に結成されたのが秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドだ。この試みに手ごたえを感じた彼女は、日本の旧知のディレクターに掛け合い、アルバム制作にこぎつける。そして自身のターニングポイントとなる一曲を書き上げた。アルバムの表題ともなった「孤軍」。フィリピンのルバング島で終戦後も一人諜報活動を続け、1974年に救出された小野田寛郎少尉をテーマにした作品である。

「私は社会人として社会で起こることに関心がある。ジャーナリストなら文章で表現するのでしょうが、同じように私はそれを音楽で表現しようと思っていました。それが明確に形になった曲です。
 30年という長い年月を国のためにささげた小野田さんの孤独な戦いと、米軍で孤軍奮闘してジャズを追求してきた自分の人生をオーバーラップさせ、書き上げました」

 このアルバムは日本で発売され、1万枚売れれば上出来というジャズのアルバムとしては異例の3万枚のセールスを記録。米国でも発売され、大きな反響を呼ぶことになった。

 この勢いを買い、1975年にはモンタレー・ジャズ・フェスティバルなどにも出演、アルバムも続けて発表した。さらに翌年発表した公害病をテーマにした「ミナマタ」という曲を含むアルバムはグラミー賞候補にまでなる。

 ところがそんな順調な時期に、思わぬ屈辱を味わう。レコード会社が制作した宣伝用資料に、アルバムの作曲者が「秋吉敏子」ではなく、「全曲、ルー・タバキン」と記されていたのだ。

「足が震えるほどのショックを受けました。誤解もあったのでしょうが、日本人のしかも女性がこれだけのものを書けるはずがないという偏見ゆえだと考えています。屈辱的でした」

 プロモーションで夫のルーが出演したラジオ番組でも、しきりにインタビュアーは「あなたがアイデアを出したんでしょう」と水を向ける。彼が、書いたのは妻だと説明してもなかなか納得してもらえない。

「まだまだ、ジャズ界には日本人に対する、そして女性に対する偏見があったのでしょう。やはり自分が進んできた道は、いばらの道だなと実感しました」

 それでも彼女の快進撃は続き、1978年には米国、日本に加え、欧州ツアーも始めた。こうして名実ともに「世界の秋吉」となっていく。

「米国での評価や人気はうなぎのぼりで、米国の権威あるジャズ専門誌『ダウンビート』の78年度読者投票では、ビッグバンド、編曲の2部門で1位。翌79年度には同誌国際批評家投票でビッグバンド、編曲の2部門でトップ。そして80年度の読者投票では両部門に加え、作曲部門でも1位となり、3冠を達成したのだ」

 このビッグバンドはその後2003年の解散まで彼女の活動の中心となる。

 その後の彼女は日本ではソロピアノでの活動が多い。ビッグバンドと比べると小回りがきき、身軽なのが大きな利点だ。

 世界的な大物であるのもかかわらず、彼女はある時期からマネージャーを置いていない。単身来日し、一人で国内を移動しているのだ。

 西田氏の取材に、秋吉はこう語っている。

「スケジュールさえ許せば、呼んでくれる場所にはどこでも行く気持ちです。公演を引き受ける条件は、宿を手配してくれることと、最寄りの駅や飛行場まで送り迎えしてくれることだけです」

 現在89歳。今後もコンサートの予定が入っている。

デイリー新潮編集部

2019年8月21日掲載

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