55年前と来年「東京五輪」を2回取材 89歳現役“格闘技記者”の凄すぎる取材歴

スポーツ2019年5月14日掲載

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 4月29日「昭和の日」、日本武道館で体重無差別で「真の日本一」を決める全日本柔道選手権大会が開催され、決勝でウルフ・アロン(23)が加藤博剛(33)を破り初優勝した。100キロ以下級の2人が、並みいる巨漢を支え釣り込み足や巴投げなど多彩な技で翻弄して勝ち上がったのは見事だったが、最重量クラスの本命、王子谷剛志(26)や原沢久喜(26)は不甲斐なかった。(取材・文/粟野仁雄 ジャーナリスト)

 この大会の3回戦で、71年間の大会史上初の出来事があった。トーナメントなのに佐藤和哉(24)と熊代祐輔(30)が、消極姿勢から3回の指導を受けて両者反則負けで消えた。

「立派な判断。日本の審判レベルが国際的にも上がったことを証明した」と褒めるのは、元日刊スポーツ記者で拓殖大学の宮澤正幸客員教授、89歳だ。

「この判定で逆に思い出したのが、初めて全日本を見た1949年の第2回大会」と話す。伝説の柔道家・木村政彦(1917~1993)と石川隆彦(1917~2008)が、激戦の末、両者引き分け優勝となった。主審は「柔道の神様」三船久蔵・十段(1883~1965)。「木村が押していた。大会後、雑誌『柔道』は嘉納治五郎(1860~1938)が言ったという“天に二つの太陽はない”を引用して判定を批判したのです。『柔道』は講道館が発行しているのに神様を批判したのは立派」と懐かしがる。以来70年間、大会に通い続けるから仰天だ。

 専門は格闘技。特に相撲、柔道、レスリングだ。「柔道の第1回世界選手権(1956年)は蔵前国技館。夏井昇吉(1925~2006)と吉松義彦(1920~1988)の決勝で、夏井が優勝しアントン・ヘーシンク(1934~2010)が3位でした。主審が決める柔道にはジャッジペーパーなんてないけど、私はレスリング出身で学連の審判もしたから科学的審判が必要と感じ、これを取り入れようと決勝の2人が何度場外へ出たのかを数えました。ところがスポーツニッポンの岡部平太解説者(1891~1966)が同じことをしていてびっくりしましたね」。岡部は柔道九段。アメフトを日本に紹介した人物だ。

スカルノ大統領と単独会見のスクープ

 小田原市出身の宮澤正幸は15歳で敗戦の玉音放送を聞いた。「予科練の試験に合格していたので、まだ特攻機で戦うぞと、厚木の飛行場に行きかけましたが、翌日、阿南(惟幾)陸軍大臣が割腹自決したと聞き、天皇の御心を汲んで陸軍の徹底抗戦を止めたと思い断念しました」。

 戦後、米軍基地でアルバイトをして日本大学に入るが、1年後に受け直して拓殖大学に進み貿易学科でインドネシア語を専攻。「在外父兄同胞救出学生同盟」でシベリア抑留者が帰還する舞鶴市などで、復員軍人の世話をした。

 当時、軍国主義に貢献したとされた柔道、剣道、薙刀などは進駐軍に禁止され、レスリングやフェンシングが人気になり、拓大ではレスリング部に入った。「マネージャーでしたが試合にも引っ張り出されました」。

 1953年春、東京新聞(夕刊紙・現在の東京新聞とは別)に入社したが取材記者ではなかったため物足りず、翌年、日刊スポーツを受験し合格。1962年夏、ジャカルタのアジア大会に派遣された。伊藤忠で通訳をする拓大の後輩から、スカルノ大統領付きの司令官の連絡先を教えられ電話すると、「待っていてください」と日時と場所を教えられた。宮殿裏では本当に大統領が目の前に現れた。緊張してインドネシア語で「東京オリンピックに貴国選手団とともにぜひ参加してください」と求めたら「東京には友人がいる。ぜひ行きたい」と言ってくれた。単独会見は大スクープ。「本当にスカルノに一人で会ったのか」。他紙の記者たちは仰天した。親しかったAP通信社のカメラマンが撮ってくれた写真が紙面を飾った。

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