55年前と来年「東京五輪」を2回取材 89歳現役“格闘技記者”の凄すぎる取材歴

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開けなかった控室の扉

 1964年10月10日、東京五輪の開会式。宮澤は大空に五輪の輪を描く航空自衛隊ブルーインパルスの通信室に潜り込み、自衛隊の地対空交信を取材した。いつも独特の取材をする。

「最終聖火ランナーは坂井義則くん(1945~2014)。原爆投下日に生まれた彼を、早大教授だった広島出身の織田幹雄さん(1905~1998:アムステルダム五輪・陸上三段跳び優勝)と朝日新聞が強く推した。毎日新聞も坂井くんを捕まえようと広島から主要駅を張ったが、朝日は神戸で彼を降ろして伊丹空港から社機に乗せて羽田に運び、毎日を撒いてしまった」と激しいスクープ合戦を振り返る。

 忘れられないのが柔道の無差別級決勝。神永昭夫(1936~1993)がオランダの巨漢アントン・ヘーシンクに敗北した、日本柔道衝撃の試合だ。宮澤は観客席で、神永の父、兄、新婚の妻を取材する役。だが神永は9分間の死闘の末、袈裟固めに屈した。

「私の父は仙台出身で、神永さんと実家同士が近く、彼と親しくしていた。『一本、それまで』の声が響くと、お通夜のようで何も聞けなかった」。控室に走ると中から「俺が悪かった」と号泣が聞こえた。「明治大学時代からの指導者、曽根康治コーチ(1928~1981)の声。扉を開くことはできなかった」。

 天理大学で練習していたヘーシンクには誰も勝てないことを、柔道関係者は薄々感じていた。誰をぶつけるかの議論の末、猪熊功(1938~2001)は重量級、神永は無差別級に回った。「無差別で猪熊はヘーシンクに勝てない。膝を痛めた神永が重量級でダグ・ロジャース(78=カナダ)に敗れれば二つ落とす、と恐れた全柔連の後ろ向き判断でした。大会後、神永さんの実家には『非国民め』という心ない電話もあったのです」。一方、ロジャースは拓大で木村政彦に鍛えられた。なんと宮澤ら拓大関係者は、ロジャースを応援していた。

 レスリングは吉田義勝(77)、上武洋次郎(76)、花原勉(79)ら5人が金メダルと大活躍だった。「34歳と充実していた時に巡り合ったことは幸運でした」というオリンピックは、その後、ソウル、バルセロナ、アトランタ、アテネで現地取材した。55歳で定年退職後のバルセロナ以降は自費参加だ。

 レスリングも柔道も、女子の台頭には驚いた。「講道館女子の部では、形とか礼儀作法だけで、女子の試合は全くなく、試合形式が始まってもお人形さんのダンスみたいでした。それが、欧州では女子も男子並みに試合をしている。そのうち日本でも山口香さん(54)や田辺陽子さん(53)の活躍で人気が出た。1988年ソウルオリンピック佐々木光の優勝で世界の仲間入りをした。

「土俵の鬼」の引退もスクープ

 昭和30年代の「柏鵬時代」。宮澤はとりわけ柏戸(1938~1996)と親しかった。柏戸がまだ小結で大鵬(1940~2013)が新入幕の頃、柏戸が勝った柏鵬戦を「注目の一番」と書いたが、翌日、柏戸に「宮ちゃん、あの記事は一体なんだよ。番付をよく見てくれよ」と言われた。相手は新入幕なのに、なんでそんなに騒ぐんだ、とのプライドだった。

 1962年5月、会社にいた宮澤に「土俵の鬼」初代若乃花(1928~2010)の妻から突然、電話が。「お世話になりました。主人は引退します。明日、記者会見を開きます」と。「奥さんは『宮澤くんに電話しとけ』と言われたらしい。引退発表日(5月1日)の朝刊で日刊スポーツがスクープできました」。信頼されていたことが嬉しかった。

 横綱になった大鵬や柏戸が、ハワイ巡業からピストルを持ち込む事件があった。「最初にばれた若羽黒(1934~1969)が『あいつも買ってる』とペラペラしゃべった。今なら大問題で理事長はクビでしょう。のんびりした時代でしたよ」。

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