迷宮入りの「悪魔の詩」訳者殺人、問題にされた2つのポイント【平成の怪事件簿】

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死刑宣告を招いた記述

 イギリスの大手出版社ペンギンブックス社から『悪魔の詩』が出版されたのは、1988年9月だった。著者のサルマン・ラシュディ氏は、インドの大都市ボンベイのイスラム家庭に生まれ、ケンブリッジ大学に学んだインド系英国人だ。
 
 間もなく、『悪魔の詩』の出版禁止を求めた欧米のイスラム教徒によって、大規模なデモ行動が引き起こされた。殺気だった抗議活動をさらに燃え広がらせたのは、出版の翌89年2月、イランの最高指導者ホメイニ師が、著者に下した「死刑判決」だった。全世界のムスリムに向けて昂然と判決の履行を呼びかけたに等しい宗教判断に対し、ラシュディ氏を完全保護下に置いた英国政府は、イランとの国交断絶に踏み切るのである。
 
 そんな騒動の最中に、パルマ氏は、五十嵐助教授に『悪魔の詩』日本語版の翻訳依頼を持ち込んでいた。すでに、何人かの候補者に依頼を断わられた後であった。東京大学理学部数学科を卒業した五十嵐助教授は、同大学院では人文科学研究科の美学芸術学博士課程を専攻、修了後にはイラン王立哲学アカデミーに研究員として招かれていた。理数畑から研究領域を大胆に広げた特異な経歴は、助教授の旺盛な探究心を窺わせる。
 
 この問題の書『悪魔の詩』とはいかなる小説であったのだろうか。主人公は、ボンベイの貧困家庭と裕福な家に生まれた2人のインド人青年だ。英国に出てつかず離れずの日々を送る2人が、ひとりの女性をめぐって争い、やがてそれぞれの明暗を胸に、インドへ戻ってゆくというのが、かなり大ざっぱな粗筋である。

「要約してしまえば、一種のメロドラマにすぎない。そんな小説がなぜイスラム教徒を刺激する作品になったかといえば、偶数章のすべてを占める、夢もしくは幻想場面の内容にある」と、五十嵐助教授は「月刊Asahi」平成元年6月号で語っている。「一部のイスラーム教徒が『悪魔の詩』を糾弾するポイントは、二つに絞られよう。教義上の問題と品性上の問題である」(前出「中央公論」)と考察する教授は、小説中の2場面を論点に取り上げている。ひとつは、イスラムの預言者ムハンマドを彷彿させる人物が、大神アッラーに帰依する3女神の存在を認めた場面だ。これを、純正なる一神教を冒涜した比喩と、一部イスラム教徒は解釈したらしかった。もうひとつは、預言者の2番目の妻が、娼婦としてハーレムにいたという設定である。

 五十嵐助教授は、前出2題の寄稿で、問題部分をイスラムの規範に照らしつつ詳細に検証した上で、ホメイニ判決に便乗する一部イスラム教徒に向けて、こんなメッセージを送った。

「ホメイニー師の死刑宣告は勇み足であった。(中略)イスラームこそ元来は、もっともっと大きくて健康的な宗教ではなかったか」(同「中央公論」)

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