オリンピックを復活に導いた独創的なプレゼンの仕掛けとは

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男爵の再挑戦

 私たちが知っている「オリンピック」はどのようにして生まれたか。前回に続き『歴史を動かしたプレゼン』(林 寧彦・著)を抜粋、引用しながら見てみよう。

 前回見たのは、クーベルタン男爵がぶちあげた「オリンピック復活」のプレゼンが失敗に終わったところまでだ。

 古代で開かれたスポーツの祭典を現代によみがえらせる――このアイディアが新しすぎたことを失敗の原因として、クーベルタンは回想しているが、実は少しそこには誇張があって、実はアイディアそのものは別の人もすでに提唱していたらしい。「俺がオリジナルだ」と言いたいので、話を少し盛ったようなのだ。

 もっとも、プレゼンが失敗したのは事実。その理由として著者の林氏は「観たことがないオリンピックを(プレゼンの)聴衆はリアルに想像できなかった」「根回しゼロだった」「いつどこでどうやるか、といった具体性がなかった」ことなどを挙げている。

 しかし、このあとクーベルタンは2度めのプレゼンの機会を得た。というか自分で機会を作ってしまった。

 当時、スポーツ関係者の間では「アマチュア」と「プロ」の線引きが問題となり、論争の対象となっていた。そこで1894年、彼はこの問題を話し合う国際会議を開くことにする。彼の腹積もりでは、会議の裏テーマは「オリンピック復活」である。

 そして、欧米の名士やスポーツ関係者に会議の案内状を送った。「気が遠くなるほど」の量の手紙を送ったという。

プレゼンの仕掛けで大成功

 さらに前回の反省を生かして、プレゼンに独創的なアイディアを盛り込んだ。具体的には以下の通りだ。

「(1)祝典とレセプションを、初日に持ってきた

 ふつうなら会議の最終日に催されるそれらの儀式を、会期の冒頭に置いた。初日に参加者の心をつかみ、その後の会議をスムーズに進めるのが狙い。マスコミの関心も、スタートで一気に惹きつけたい。

 (2)委員会をふたつに分けた

 アマチュア問題を討議する委員会と、オリンピック復活をテーマにする委員会に分けた。つまり、議論百出が予想されるアマチュア問題を一委員会のテーマに押し込めて、オリンピックから切り離した。

 (3)開会式の入場券に印刷したのは、『オリンピック大会復活会議』

 祝典とレセプションを、あたかもオリンピック復活を祝うような印象を与えるものにする。会議はまだ始まってもいないが、クーベルタンは『オリンピック大会復活検討会議』とはネーミングしない。

 (4)会場はソルボンヌ大学大講堂

 今回も大学総長に頼みこんで会場を貸してもらった。不当に軽く見られている『スポーツ』の真価を認めさせるには、理性よりも情に訴えるほうが効果的だ。『オリンピック会議+ソルボンヌ大学大講堂』という組み合わせが、オリンピックのイメージを押し上げる効果を十分に計算していた。

 (5)ギリシャ国王から感謝の電報

 復活の賛否を問う投票が行なわれる2日前(まだ会議が行なわれている最中)に、ギリシャ国王から届いた電報が披露された。復活が決まったことに対して、クーベルタンや会議参加者に感謝するという内容。もちろん、クーベルタンの画策だ。

 こうして挙げていくと、プレゼンテーションを始める前の『場』の作り方の巧みさと強引さに舌を巻く。確信犯的なフライングもおりまぜて、オリンピックの復活決議が既成事実であるかのような導き方である」

 さらにこのプレゼンをドラマチックにするため、クーベルタンは音楽も利用した。古代ギリシャで演奏されたと考えられる「デルポイのアポロン賛歌」を会議の冒頭、生演奏で披露させたのだ。ハープと大編成の合唱をバックに、オペラ座出演の歌手が歌いあげた。

 こうした仕掛けによって、出席者の気分は盛り上がり、オリンピックを復活させて国際大会として開催しよう、ということが一気にその場で決まってしまった。あまりに盛り上りすぎたので、本来は1900年に開催するはずが、「6年も待てない」という声が高まり、結局1896年、アテネで第1回を開催することになったほどだ。

 クーベルタンのプレゼンは、冷静に見ればかなり山師っぽいところもある。しかし、そのおかげで近代スポーツが普及し、「平和の祭典」が実現したのは事実だ。

「いだてん」で取り上げたストックホルム大会は、それから16年後、第5回大会である。

(※参考資料『オリンピックと近代――評伝クーベルタン』〔ジョン・J・マカルーン著 柴田元幸/菅原克也訳〕)

デイリー新潮編集部

2019年4月29日掲載

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