66年前、19歳で米国を訪問された「天皇陛下」と映画「ローマの休日」

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ダレスの大演説

 敗戦からわずか8年後の1953年3月、当時皇太子だった今上天皇は、父である昭和天皇の名代としてエリザベス英女王の戴冠式に出席するため、半年に及ぶ外遊に出発した。英国の他にフランスやスペイン、米国など延べ14カ国を回る長旅で、すでに講和条約で独立を回復したとは言え、わが国を見る目は厳しく、国際社会への復帰を印象づける狙いもあった。

 大型客船で横浜を発った皇太子一行は、各国で要人と会談を重ねたが、米国滞在中のハイライトが、9月17日のニューヨークでの晩餐会だった。名門ウォルドルフ・アストリア・ホテルで開かれたパーティは、両国の関係者1500名が出席したが、その立役者が、主催団体ジャパン・ソサエティの理事長、ジョン・ロックフェラー3世だった。

 ロックフェラー財閥は、19世紀に石油業界に乗り出したロックフェラー1世が創設したスタンダードオイル社が母体で、石油や金融業界に隠然たる力を誇ってきた。元大統領をメンバーに迎えた外交問題評議会を組織するなど、米国の外交にも影響を与え、そのせいか世界を動かす影の政府と陰謀論の標的にされ易い。

 そして3世は、晩餐会の2カ月前、映画監督でジャパン・ソサエティ会員でもあるジョシュア・ローガンから、1通の手紙を受け取った。マリリン・モンロー主演の映画「バス停留所」やミュージカル「南太平洋」の演出で知られるローガンは、3世と皇太子歓迎の晩餐会について話し合い、そのプログラムに「言うべき言葉もない」と幻滅していた。

「私がやりたいのは、皇太子が80歳、90歳になっても記憶に留めていて、常に米国を思い出させるものである。それが外交儀礼上できないというなら、世界のより大きな問題の解決など無理だ。自分が担当者なら、この機会に全力を尽くすだろうに」

 晩餐会のプログラムは国務省や日本大使館と連絡を取り合って決められたが、ローガンは、いかにも映画監督らしく、堅苦しいスピーチだけでなく、ダンスの余興も入れるべきだと訴えていた。だが、結局、当日は地元のコロンビア大学の学生の合唱とバイオリン演奏に落ち着いたのだった。

 また、この晩餐会には、日米両国に影響力を持つ人物が招かれ、スピーチを行っていた。当時のアイゼンハワー政権の国務長官で米政界の重鎮だったジョン・フォスター・ダレスである。日本が独立を取り戻した講和条約の締結を陰で支え、設立間もないCIA(米中央情報局)長官の弟アレン・ダレスと共に米外交を一手に担った人物だ。

 壇上に上がったダレスは、20分に亘るスピーチを行ったが、ロックフェラー財閥のアーカイブに残る記録を読むと、それが極めて生臭い政治性を含んでいたのが分かる。ダレスは皇太子の面前で、共産主義の脅威を訴え、日本に軍備増強を求める大演説をぶったのだ。

「歴史が示す通り、侵略者は常に獲物を見つけたような目つきで、軍事的に脆弱で、政治が安定せず孤立した国を見ている」として、日米安全保障条約に触れた上で、「殿下が日本国民に及ぼす道徳的リーダーシップ、見識を高く信頼申し上げる」と結んだ。

 東西冷戦下の共産主義との戦いで、日米は今や一心同体である、軍備増強は不可欠で、将来の天皇として、それを推進すべく影響力を行使せよとの趣旨だが、象徴天皇制など無視したような口ぶりだ。案の定、翌日の有力紙ニューヨーク・タイムズは「ダレス、皇太子との夕食会で軍備増強を要求」という長文の記事を掲載している。

 そして、じつはこの晩餐会には、もう一人、戦後の日本にとてつもない影響を与えた人物が招待されたが、本人が断ってきていた。占領期に絶対権力者として君臨した連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーである。2年前に解任され帰国した彼に、ジャパン・ソサエティは初夏から出席を打診したが、結局、辞退されたという。

 日本でマッカーサーは、戦争の放棄と戦力の不保持を盛り込んだ憲法を制定させたが、東西冷戦が激しくなる中、米国の対日政策は大きく“逆コース”を取り始める。あからさまに軍備増強を求めると同時に、戦前の政治家や軍人が公職追放を解かれ、続々と表に復帰しようとしていた。

 マッカーサーが欠席した中で、ダレス国務長官が軍備増強を求める大演説をぶつ、朝令暮改もいいところだが、ある意味で、この晩餐会は当時の日本を取り巻く国際情勢の縮図だったと言える。その真っ只中に、たった19歳の皇太子は放り込まれたのだった。

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