「福生病院」院長が語る“人工透析と尊厳死” 治療再開の意思に病院は応じず

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治療再開の意思に病院は応じず…「人工透析」と「尊厳死」(1/3)

「今回の件で、命についての議論がかなり深まると思います。命の根本に関わるものすごく難しい問題ですけどね」

 渦中の公立福生(ふっさ)病院(東京都)の院長は、はっきりと、そして彼なりの「信念」に基づいていることを強く窺(うかが)わせながら語り始めた。確信的、あるいは確信犯的に……。

「1分1秒でも、どういう形であるにしろ生き永らえるのが善で、1分1秒でも命が短いことは悪だというシンプルなものではないと、私は思います」

 命は何よりも尊く、人間ひとりの命は地球よりも重い。戦後積み上げられてきた人権意識の果てに、超高齢社会に直面している我々は今、平成の終わりに「福生事件」との対峙を余儀なくされている。

 そして「震源地」である福生病院からは、地鳴りのように重く、不気味で、心臓を突き上げ鷲掴(わしづか)みしてくるような激しい揺れと響きが伝わってきている。

 その轟(とどろ)きに耳を澄ませてみる。根源的にして、悪魔的な響動に。すると、その地鳴りは我々にこう問い掛けていることに気付く。

 これは「尊厳死」なのか、それとも死への誘導という「緩やかな殺人」なのか。あなたはこの命題から逃げるべきではない、と――。

 それは1本のスクープ記事から始まった。

〈医師、「死」の選択肢提示/透析中止 患者死亡〉

 3月7日付の毎日新聞朝刊が、1面トップにこんな見出しを掲載し、大々的に記事を展開したのである。

「昨年8月、福生病院に入院した44歳の腎臓病患者の女性が、病院の外科医から人工透析中止の選択肢を提示されると、彼女は中止の意思確認書に署名。実際に透析は中止され、その1週間後に亡くなりました」

 と、大手メディアの担当記者が解説する。

「この案件が衝撃的だったのは、女性患者が延命治療を拒んだという単純な話ではなく、いくつかの複雑な要素が絡んでいることでした。まず1点目は、一度は透析中止を選択した彼女が、途中でその意思を撤回したとされる点です」

 腎臓病を患い人工透析を受け始めると、病が完治することはないため、患者は延々と「命綱」である透析を続けなければならない。すなわち、透析の中止は事実上の死を意味する。一方、週3回受けなければならない人工透析は、さまざまな苦痛を伴う。

「透析の際、毎回血管に針を刺すことなどに忌避感を覚えていた女性患者は、医師から死の危険性の説明を受けた上で自ら中止の道を選んだものの、逆に中止に伴う苦痛に耐えられなくなり、透析の再開を望んだといいます。体内に溜まる毒素を除去するのが透析ですから、止めれば毒素が体内に滞留し、苦しくなるのは当然です」(同)

 毎日新聞によれば、透析中止後、女性患者は「息が苦しい」と訴え、「こんなに苦しいなら、また透析をしようかな」と外科医に伝えた。しかし、「苦しいのが取れればいいの?」と外科医が問うと、彼女は「苦しいのが取れればいい」と答えたため、透析は再開されず鎮静剤を打っただけで、女性患者はその翌日に息を引き取ったという。

「仮に彼女が一旦は透析中止を望んだとしても、その後に再開の意思を示していたのであれば、病院や医師は女性患者の命を全力で救うべきだったのではないかとの議論が巻き起こりました」(同)

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