「福生病院」院長が語る“人工透析と尊厳死” 治療再開の意思に病院は応じず

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「意思には波がある」

 果たして、福生病院が女性患者の意思を確認する手続きに瑕疵(かし)はなかったのか。また同院で恒常的に行われていた透析の非導入および中止は、どのような医療者としての正義感に基づいたものだったのか。こうした疑問に答える形で、院長が発したのが冒頭の言葉だ。以下は、院長との問答の続きである。

――苦しみながら生きることは是ではない?

「それは患者ご本人が決めないとしょうがないこと。他人様(ひとさま)が、苦しんでも生きるのが正義だなんて言うものではないでしょう」

――患者が透析再開の意思を示したら、病院としては再開すべき、そう考える一般人が多いのではないか。

「もちろん、『迷っています』と言う人に『迷うんじゃない』とは、人間として言えるものではない。しかし、患者さんの意思には波がある。意識が朦朧としてボーッとしている時の意思と、また意識がきちんと戻った時の意思と、どちらを尊重すべきか。その場合は後者を尊重するというのが医療現場での感覚です」

――女性患者に限らず、透析の非導入や中止が福生病院では多い印象を受ける。

「単純に数だけを取り上げても意味がない。フランスやスペインでは、透析患者の死亡原因の20~25%は透析中止なんです。日本は1%か0・5%と言われている。つまり、生死の問題というのは、国によって哲学が違うわけです。フランスであれば、食べられなくなったら人生おしまいというコンセンサスができている。文化が違うから当然です。いろいろな国で考え方が違うということを皆さんに知っていただきたい。だから、医療関係者だけでなく、一般の人や、哲学者、宗教学者も含めて議論を尽くしてほしいと思います。日本人は、そういう(尊厳死の)議論を避けているところがあるでしょう」

 院長の一連の言葉から浮かび上がってくるのは、手続きにミスはなかったという「自負」。また、透析中止は海外では珍しくないのに日本では異端視されていることへの医療者としての「苛立ち」。そして、人工透析患者が尊厳死を選ぶ、敢(あ)えて言えば患者にそれを選ばせることの「正義」。裏を返すと、日本の人工透析治療には海外とは異なる「闇」があることを示唆しているとも言える。

 事実、福生事件に対する審判は措(お)くとして、そこには確かに闇が存在しているのだった。

(2)へつづく

週刊新潮 2019年3月28日号掲載

特集「治療再開の意思に病院は応じず…『人工透析』と『尊厳死』」より

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