早大スーフリ事件「和田サン」懺悔録 私が“鬼畜集団の首領”になるまで

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「鬼畜」への第一歩

 ディスコのバイトをしている間、スーフリは新入生歓迎の春以外は活動しないという、半ば休眠状態になっていました。その頃は飲み会やパーティーを開いてもまるで人が集まらなかったのですが、バイトを辞めて時間ができ、98年の4月に六本木のクラブでイベントを開いたら、500人以上が集まって「大成功」してしまった。それで味をしめ、以降はイベントが生活の中心になっていったのです。実入りはさほどありませんでしたが、大勢集まるイベントの主催者として、すっかり悦に入ってしまった。元来、私はサービス精神が旺盛で、相手に調子を合わせて喜ばせたいという願望が強くあり、自分の立場に酔っていたのです。

 この4月のイベントは、バイトで知り合った他大学の仲間にも手伝ってもらったのですが、結果的にはインカレサークルとなったこの時期から、スーフリは変わった。もっと言えば、サークル内で輪姦が常態化していったのです。それまでの私は女性と二人きりで酒を飲み、勢いのままセックスすることはありました。後々トラブルになることもなく、その流れで数十人と関係を持ちましたが、当時はまだ、大勢で一人の女性を犯すという行為には心理的抵抗があったのです。

 スーフリが変貌した98年4月とは、バイトを辞めて暇になった私が仲間を集め、毎日のように高田馬場駅前でサークルの勧誘を装って即席の飲み会を開いていた時期でした。その席にたまたま“まわし”の経験がある男がいて、さらにこれもたまたま、勧められるままお酒を飲んでしまう女の子が2人いた。で、私の後輩がどんどん飲ませ、泥酔したその2人を近くの自宅に連れ込みました。店に残った私も後輩から呼び出され、その日初めて“まわし”に加わったのです。ちょっと尻込みした反面、その頃は感覚も麻痺していて“目の前にいるなら撃って(注・性交の隠語)おかないと”と思ったのは事実です。その日は5~6人で2人の子を犯しましたが、トラブルにもならず、最初にうまくいったので、以降どんどんエスカレートしていきました。

 一対一のセックスから、なぜ輪姦へと移っていったのか。にわかに信じてもらえないでしょうが、正直に言えば、それは私が“セックスできる女性を独占するのは他の参加者に悪い”“自分だけがおいしい思いをするのはズルい”という、狂った感覚に囚われていたからです。被害に遭った女性からすればたまったものではありませんが、ちょうど後輩や友達に食事をおごるような気分に近かった。初めての“まわし”から事件が発覚するまでの5年間で、手口は洗練されていきました。私が具体的に指示をしなくても、後輩たちが勝手に流れを作っていく。そのシステムを構築してしまったのは、私でした。

 サークルの中には「ギャルズ」と呼ばれる常連の女の子たちもいて、そういう行為を知っていたり、被害に遭った後に常連となったりした子もいた。だから私たちは、他のサークルもしているし、自分たちは捕まるはずがないという根拠のない自信を持ってしまった。今から思えば言語道断ですが“泣き叫ぶ女性を力ずくで犯すのとはワケが違う”などと、勝手に自らを正当化していたのです。

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