誰がどう決めるのか? “平成”担当者が明かす「元号」誕生の舞台裏

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「私が誘導した」

 こうした学者らの案は、内閣府のさる一室で、隠し金庫のようなスペースに厳重保管されているという。85年から内閣内政審議室長として元号制定準備を担当し、学者の選定にあたっていた的場順三氏に聞くと、

「保管場所は言えません」

 としながらも、

「学者を選ぶ基準は、文化勲章受章者や文化功労者、それから日本学士院会員など、そうしたレベルの方を全国津々浦々探すのです。で、ようやく見つかったら直接お会いして『ご家族にも内密で』とお願いする。先生方が考えた案は郵送で届いたり、私が直接貰いに行ったりしていました」

 一方で昭和の末期、竹下内閣の官房副長官として制定作業に携わった石原信雄氏は、こう回想する。

「私が加わったのは、昭和天皇が大量吐血された翌日の88年9月20日の朝でした。竹下総理、小渕官房長官と私、そして的場さんが総理の執務室に会し、的場さんが『平成』『修文』『正化』という三つの候補を示し、口頭でそれぞれの意味や由来の説明があった。私は直感的に『平成が最もいいのでは』と思いましたが、その場では誰も感想を口にしなかった。ともかく、その日から翌年1月7日まで、外部に一切漏れることのないよう、細心の注意を払ったものでした」

 89年1月7日早朝、昭和天皇が崩御。直後、官邸内では「元号に関する懇談会」(元号懇)が催され、当時のNHK会長や新聞協会会長、国立大学協会会長ら8人が有識者として出席した。

「8人には秋の時点でメンバーを委嘱していましたが、陛下の容体が急変するおそれもあるので『年末年始は都内にいて下さい』と内々にお願いしていた。だから7日の朝に緊急召集をかけ、午後一番に懇談会が開催できたのです」(同)

 何より神経を使ったのは、秘密保持だった。

「会議中は、出席者がトイレに行く時も随行がつくほどでした。席上、8人に三つの候補が示され、それぞれ的場さんが解説を加えたのですが、まず小林與三次・新聞協会会長が『平成がいい』と表明し、他に5人が平成を推しました。修文と正化は1人ずつ賛成がありましたが、最終的には平成で意見がまとまり、その旨を全閣僚会議で伝えたのです」(同)

 石原氏とともに重責を担った先の的場氏によれば、当日、ある“意向”が働いていたのだという。

「イニシャルにすると明治大正昭和はM・T・S。『修文と正化はSとなり、昭和と重なるから平成がいいのでは』と、私は元号懇の場で誘導していったのです。もちろんそれ以前に、竹下さんや小渕さんとは“平成でいこう”といった暗黙の了解があったわけですが、当日、会議の場で一から議論をしていたのでは発表までに間に合わない。話をまとめた後は、メンバーから情報が漏れないように石原さんや内政室の職員を“監視役”として部屋に残し、私は国会に衆参両院の正副議長を訪ねました」

 そこでは“お任せ頂けますか”“どうぞ”とあっさり終わり、再び官邸へ。

「全閣僚会議の場でも平成で押し切り、異論がないと分かったところで臨時閣議に切り替わり、あとは花押(かおう)を書いてもらうだけ。政令は皇居に届けられ、陛下が目を通してサインされるのと前後して、14時半過ぎから小渕さんの会見が始まった。ここでようやく“軟禁状態”に置かれていた全閣僚と元号懇メンバーは解放されたわけです」(同)

 わずか半日間とはいえ、極めて濃厚な時間が流れていたのが窺える。来るべき4月1日は、果たしてどのような光景が展開されるのだろうか。

週刊新潮 2019年1月17日号掲載

特集「『御代替わり』7つの謎」より

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