「3億円事件」発生から50年 時効直前“特捜本部”が勝負をかけた取調室

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〈死ぬというのは美しい――〉

「取調室では激しい攻防が続きました。しかし不測の事態が生じた。おかしな点を追及していると、彼が突然、ウワーと叫び、机や床に頭を打ちつけ始めたんです。調べ官が“出所を説明しろ”と更に迫ると“言えない”とだけ答え、また頭をぶつけ始めた。“なぜそんな苦しい思いをする。カネの出所を説明すれば済むだけのことだろう”と叱責したが、それには答えず、自傷行為を繰り返しました。自殺を図ろうとしているようなものです。マスコミに漏れたら、大変な問題になる。聴取にならず、時効の問題もあり、上層部の判断で取り調べは打ち切られました。結局、怪しいカネの出所ははっきりしないまま終わった。時間がなかったのが残念です。奴が犯人の1人で間違いない。もう少しで逃げ切れるので、必死にあんなマネをしたのでしょう」

 12月4日、青田は釈放された。10日が時効成立の日だったが、事実上、このときが3億円事件の迷宮入りが決定した瞬間だった。

 先の捜査幹部が、改めて佐伯少年について振り返る。

「彼は“サツズレ”していて、警察が来たくらいで死ぬタマではない。普通なら自殺する理由がないんです」

 昭和43年12月15日の夜、少年は父親と激しい口論となり、その後、謎の自殺を遂げた。彼は可愛がっていた妹宛てに便箋2通の遺書を残していたが、実はもう1通、別人の遺書が、部屋から発見されていた。彼の母親が書いたもので、〈私の遺骨は実家の墓に入れて下さい〉とあった。

「2人の遺書について、特捜本部の刑事が母親に質すと、“息子が便箋がほしいと言うので渡したが、まさか遺書を書くためとは思わなかった。私の遺書はずっと以前に書いたもの。息子を巡って以前から夫婦仲が悪く、死のうと思ったことがあった。遺書はその時のもので、便箋の中に挟んだまま、捨てるのを忘れていた”と苦しい釈明に終始しました。捜査員の多くが、“少年が、激怒する父親に3億円事件の犯行を告白し、両親は一家の将来を絶望した。母親は息子に『一緒に死のう』と諭した。しかし死んだのは少年だけだった”と思ったのも無理からぬことです。現場となった少年の部屋にはコップが2つあり、1つからは青酸カリの反応が出たが、もう1つからは何も出なかった」(同)

 少年の遺書には、概要こう記されていた。

〈死ぬというのは美しい。この世は醜悪だ。父も母も世間体ばかり考え、虚栄心だけで生きている〉

 最後に、鈴木元主任警部は捜査をこう顧みた。

「私は、“捜査は広げ過ぎてはいけない”“ツボを押さえた捜査をすれば、絶対、ホシにつながる”と上層部に意見したが、聞き入れてもらえなかった。それを徹底していれば、必ず犯人に行き着いたはずなんだ。本当に悔しいね。私は、今でもあの少年が真犯人だったと思っています。そう思わなきゃ、刑事じゃないよ」

 静かな語り口だが、細い金縁眼鏡の奥の眼光には、未だ刑事としての矜持が宿っているように見えた。

週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載/2018年12月11日再掲載

特集「昭和最大のミステリー『3億円事件』容疑者11万人超! 時効直前“特捜本部”が勝負をかけた取調室」より

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