元横綱「輪島大士」さん逝去 黄金時代を築いた「北の湖」さんと本誌で初対談

スポーツ週刊新潮 2015年1月22日号掲載

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本当に強いのは「右」

 ここで、“輪湖相搏つ”歴史に触れておこう。2人の対戦は、昭和47年名古屋場所から昭和56年初場所まで52場所の間に44回実現し、輪島の23勝21敗である。千秋楽での対戦は22回を数え、うち両者が優勝圏内の対戦が8回。そして相星決戦4回、水入りの大勝負3回。2人の、記憶に残る一番といえば……。

輪島 なんと言っても、昭和49年の名古屋場所ですね。千秋楽の本割は、当時大関だった理事長が、勝てば横綱昇進の重要な一番でした。是が非でも本割で私に勝たなければならない。実はその取組の前、まだ優勝が決まってないのに、トイレの窓から理事長の優勝パレード用の車が1号車から3号車まで見えたんです。その時、私の支度部屋には後援者1人だけで、理事長の支度部屋には後援者が30人以上もいた。周囲がそんなでしたから、理事長は硬くなっていたと思いますよ。対する私は、気楽にやったのがよかった。本割と優勝決定戦、2つ続けて勝つことができたんです。

北の湖 私も、その一番です。パレードの車は後援会の方々が前もって準備してくれるんですけどね。正直に言うと、あの時の本割前は、“この一番!”と、すごく緊張していました。

輪島 やっぱり硬くなっていましたか。私は、“負けても構わない”くらいの気持ちで相撲を取ったんです。

北の湖 敗れても昇進はしましたけれど、私は、いまでは、あそこで負けてよかったと思ってるんです。もう言葉にできないくらいの悔しさでした。ああいう屈辱的な負けがあったことで、“次は絶対に勝つ”という気持ちが強くなったんです。私にとって大きな転機です。あの悔しさがあったからこそ、私も成長して優勝を積み重ねられたと思っています。あの時、私は21歳でたしか輪島さんは26歳。私は上り調子の年齢ですが、30歳近くになれば衰えが出はじめるもの。でもまだまだ右からの強い絞りがありましたからね。輪島さんは左四つで差してくることが多くて、一方で私は右上手を持ってくることが多い。これだとお互いに勝負どころがなくてやりにくいんです。私はもっとがっぷり組んでほしいんですが、組んでくれないからやりにくくて。

輪島 私は自然に取ってましたよ。相手に関係なく、あまり考えずに。それが、私にとってよかったんです。

北の湖 私が考えていたのは右のおっつけだけ。みなさんは「輪島は左が強い。黄金の左だ」なんて言うけど、実際に本当に強いのは右。右の絞りですね。私もたくさんの力士と対戦しましたけど、あんなに強い右のおっつけをする力士はいませんでした。

輪島 そう? 私が取組前に確認していたのは、“きょうは元気そうかな”ということだけ。

北の湖 ははは。

輪島 黄金の左より右の方が実は強かったというのは、たまたまです。理事長とやる時だけ右が強かった。

北の湖 いやいや、でもそれで実際に負けてますから。だから本当、その右の対策だけ考えていました。前に出ると輪島さんに食われちゃうから、無理して出ないように。

輪島 でも、取組を重ねるうちに理事長はビクともしなくなってね。それから私は勝てなくなったんです。

北の湖 あえて私は前へ出ないようにしたんです。輪島さんはあの体勢だと左下手になります。その体勢で私は力を抜いて全身の体重を輪島さんに掛けてやるんです。そうなると下手が疲れる。下手は倍疲れる、と言われていますから。だから意識的に長い相撲を取ろうとしていました。輪島さんも30歳に近くなったころは長い相撲だと息が上がってきていた。消耗戦ですよ。

輪島 だからか……

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