元横綱「輪島大士」さん逝去 黄金時代を築いた「北の湖」さんと本誌で初対談

スポーツ週刊新潮 2015年1月22日号掲載

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自分の時代は終わった

北の湖 輪島さんは大きな壁でした。横綱を目指す以上、そして横綱になってからも、優勝するためには輪島さんに勝たなきゃならない。優勝が目標である以上、輪島さんへの勝利も目標なんです。ずっと、避けて通れない壁でした。

輪島 実は、私はその昭和49年名古屋場所の1、2年前から、“いずれ自分は、北の湖に抜かれるだろう”と感じていました。組んだ瞬間、ほかの力士とはまったく違う圧力を感じる。一番怖かったです。

北の湖 当時は本当にがむしゃらにやっていました。横綱になったらほとんど千秋楽で輪島さんと当たっていたので、輪島さんとの対戦イコール優勝争いです。千秋楽の相星決戦も何度かありましたね。昭和51年初場所が12勝で並んで、初の相星決戦。その時は私が勝ちましたけど。このあたりから、“輪島さんに勝ったら優勝! 絶対に負けられない!”と、本当に強く意識するようになったんです。

輪島 私も、お互いが横綱として千秋楽で当たるようになったころ、理事長の様子をよく見るようになりましたよ。まずは初日、次に5日目、10日目というふうに、“元気かな”ってチェックするんです。

北の湖 あと、輪島さんとの一番で忘れられないのが昭和53年の名古屋場所。途中で水が入った長い相撲でした。その時も相星決戦で燃えましたね。やっとこさ勝てて、昭和49年の名古屋場所の雪辱を果たした。

輪島 あの時、取組が終わったあとは右腕が痛くて痛くて。ご飯も食べられなかったんですよ。

北の湖 長い相撲を取ると、手がパンパンに腫れることがありますね。

輪島 あの時は理事長がテコでも動かなくて何をしてもダメだった。理事長はそうやって、チャンスをジーッと待ってるんです。

北の湖 この昭和53年名古屋場所のあとから私が勝つことが多くなりましたが、それはまあ、運命というか、輪島さんもいい年になっていましたし。

輪島 私はもうその時には、自分の時代は終わったと思ってた。理事長に勝つ気力がなくなっていました。私は自分の断髪式の時、どこかほっとしましたよ。横綱は本当に大変でしたからね。

北の湖 私も、毎場所、千秋楽を終えた時は肩の荷が下りてほっとしていました。15日間土俵にいてこそ横綱ですから。輪島さんの断髪式で思ったのは、“自分もいずれこうなるんだなあ”ということ。昭和56年3月に引退されるまで、輪島さんとは長く相撲を取ってきた。その相手がいなくなってしまって、ガクッときましたよ。千秋楽の相手がもう輪島さんじゃないんです。それはもう二度とない。だから髷(まげ)に鋏を入れる時は本当に淋しい気持ちでしたね。

輪島 私は、いい思い出をありがとうという気持ちでした。あの時、ちょっと涙が出ましたよ。

 対談後、北の湖に誘われ、輪島は理事長室へ。部屋を見渡し、理事長席の、「北の湖」と彫られた名札にしばらく見入っていた。何か、話し足りないことでもあったのだろうか。実は、輪島が角界を去ったあとも北の湖は番付表を送り続けていたという。だが2人は最後までその話題に触れることのないまま……。

輪島 お互いに健康で長生きしようね。

北の湖 この年になると、話題は健康とか長生きのことばかりですよね。お互い健康に注意しましょう。

輪島 また理事長に会いたいよ。きょうはありがとう。元気で。また会おう。

北の湖 こちらこそ、どうもありがとうございました。お元気で。

特集「大相撲の黄金期『輪湖時代』を築いた両横綱 『輪島』×『北の湖』初対談」より

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