怪死「紀州のドン・ファン」 同居わずか1カ月半「55歳年下幼妻」との出会いも高級デートクラブ

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「紀州のドン・ファン」として知られた資産家の野崎幸助氏が、5月24日に77歳で急逝。遺体からは覚醒剤が検出された。高級デートクラブで出会った愛人から大金を盗まれた2年前の事件で世間に知られることになった野崎氏だが、その死をめぐっては、55歳年下の幼妻・Sさんの存在にも注目が集まっている。そもそも2人の出会いとは、どういうものだったのか。

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 野崎氏の著書、『紀州のドン・ファン 野望篇』には、こう書いてある。

〈Sちゃんはボン・キュッ・ボン、胸にはDカップを忍ばせている私の理想のナイスプロポーションのべっぴんさんであります〉〈昨年秋に羽田空港で転んだ私を優しく助けてくれたのがSちゃんでありました。もちろん計算ずくの転倒でありまして、コケるのも歳の功、亀の甲であります。「ありがとうねえ。お礼にお食事でもいかがですか?」後日Sちゃんを一流料亭で歓待したのもいつものルーティンワークであります〉

 その後、東京、和歌山などでデートを重ね、京都の清水寺でプロポーズ。結婚の承諾を得られたという。

 しかし、野崎氏の会社関係者が語るには、

「社長は、毎週のように週末は南紀白浜空港から飛行機で上京し、六本木のミッドタウンにあるホテルを定宿にしていました。そこに、高級デートクラブから美女を呼び、一晩のお手当として数十万円を渡していた。実は、Sさんも高級デートクラブに登録していた女性。空港で転んだところを助けられたというのは、後々、社長が都合よく作り上げたストーリーです」

 そのうえ、結婚しても、しばらくは一緒にも暮らしていなかった。

「Sさんは、“モデルの仕事と遊びも兼ね、ヨーロッパなどに行かなくてはならない”と。その渡航費用は社長が負担したのですが、周りの連中は“おカネだけ貰って、東京にいるんじゃないの?”と疑っていた。その後、Sさんが社長の家で同居するようになったのは、4月に入ってからです。自動車の運転免許を取るのに、和歌山の教習所に通うためでした。社長は運転免許を取得したSさんに、ベンツを買ってやると約束していました」(同)

 結局、夫婦という関係になってから3カ月半、そのうち共に暮らした期間はわずか1カ月半ほどしかなかった。

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