「ネット」と「紙」、炎上の発火点のちがい(古市憲寿)
「週刊新潮」で連載中のこのエッセイが、少し前からオンラインサイト「デイリー新潮」に転載されている。
速報「元警官の父から半殺しの目に」「母親は異常行動を知っていた」 女児連続殺傷・勝田州彦容疑者を作った家庭環境
自分の書いた文章を読まれる機会が増えるのは嬉しいのだが、問題は雑誌とインターネットで炎上の発火点が違うということである。
昔、雑誌「プレジデント」で、田原総一朗さん、津田大介さんと鼎談をした時のことだ。誰もががむしゃらに働く必要はないという話題になり、まず津田さんが「稼ぎが落ちても、困ったらすき家がある」と発言した。
それに対して僕が、牛丼は日本型福祉の一つと応答した。北欧のように国家が福祉を提供する国と違って、日本では牛丼などのファストフードが福祉の役割を果たしているという意味だ。
この鼎談、紙の雑誌に掲載された時は全く話題にならなかった。しかし全く同じ内容がネットに転載されたら、ツイッターで意識高い人々が騒ぎ始めた。牛丼が福祉とは何事だ、というわけである。
彼らは、福祉とは国家が担うべきものであり、牛丼しか食べられないような食生活を肯定するとはけしからん、と言うのだ。
しかし福祉国家論では、福祉の提供は国家、市場、家族など複数のアクターを想定するのが常識。しかもすき家を経営するゼンショーの理念は「世界から飢餓と貧困を撲滅する」。自分たちを「社会インフラ」と位置づけ、災害時にもいち早く炊き出しや営業再開をしている。これはもう、立派な「福祉」の提供者と言っても過言ではないだろう。
ちなみに、すき家の話を持ち出した津田さん自身は、大して批判されなかった。おそらく「津田は牛丼を食べそうだが、古市は食べなそう。それなのに上から目線がむかつく」といった感情が背景にある、くだらない炎上だったのだろう(そして実際、あまり食べない)。
紙の世界とネットの世界の差は縮まりつつあるとはいえ、未だに断絶がある。だから「牛丼福祉論」の炎上のようなことが起こるのだが、今から思えば大した騒動ではなかった。
最近、「炎上」という言葉が簡単に使われがちだと思う。乙武洋匡さんや佐野研二郎さんクラスの騒動なら「炎上」と言ってもいいだろうが、彼らに比べればほとんどの炎上は、実質的には線香花火くらいのものだ。
誰でも気軽にものが言えるネット空間において、そこかしこで線香花火がチカチカしているのは仕方がない。むしろ民主主義社会において健全な状態とさえ言えるのかも知れない。
ところで、「デイリー新潮」には雑誌版同様、ナカムラさんのイラストも転載されるとのこと。ナカムラさんはLINEの「意識高い系になれるスタンプ」で有名。僕も愛用していたので、連載のイラストを頼むとき第一候補に挙げた。
結果、引き受けてくれたわけだが、実は僕や編集者は、誰もまだナカムラさんに直接会ったことがない。すべてのやりとりはネットを介して。誰もナカムラさんの顔を知らない。インターネット社会の闇である。