宮崎駿の盟友「高畑勲監督」の徹底した取材と観察眼(墓碑銘)

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 数々の名作を遺し、高畑勲さんが逝去した。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、その生涯を振り返る。

 1988年に公開された「火垂るの墓」は、アニメーション監督、高畑勲さんの代表作のひとつである。

 原作は野坂昭如さんの小説(新潮文庫所収)。神戸大空襲で家族を失った14歳の兄と4歳の妹は、遠縁のもとに身を寄せるが居心地が悪い。家を出たものの妹は栄養失調で亡くなり、兄もほどなく孤児として斃(たお)れた。

 高畑さん自身、9歳の時に空襲を経験している。焼夷弾が降り注ぐなか姉と逃げ惑い、一命を取り留めた。

「火垂るの墓」が反戦映画とばかり呼ばれることに異議を唱え、14歳の主人公の決断と行動を感じ取って欲しいと願っていた。我慢せずに家を飛び出した少年の考え方は、現在の子供や若者に似ていると驚いたことも映画化の動機のひとつだった。

「テーマを押しつけたり物事を単純化して表現したりしません。徹底した取材で人物を描きます。観る人をどんどん巻き込んでいくのではなく、どうして主人公はこんな行動をしたのだろうなどと考え想像する余地を残しました。たとえつらい結末でも、現実に向き合うことを曖昧にしません。登場人物への厳しさと温かさの両方がありました」(映画評論家の北川れい子さん)

 35年、三重県生まれ。転居先の岡山で空襲に遭う。当時、父親は旧制岡山一中の校長だった。東京大学に進み仏文学を学ぶ。

 59年、東映動画(現・東映アニメーション)に入社。6歳年下の宮崎駿さんは、同社の後輩だ。高畑さんの初監督作「太陽の王子 ホルスの大冒険」(68年)に、宮崎さんもかかわっている。東映動画を離れたのも一緒。テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」(74年)では、スイスまで異例の取材に出かける。日常の暮らしや風景、登場人物の心情を丹念に描く新境地で大人気を博す。

「風の谷のナウシカ」(84年)ではプロデューサー役。監督の宮崎さんが華奢な姿に描いたナウシカに、そんな体格では戦えない、と高畑さんは現実的に指摘。腰や腕が太くなったという。

 85年に宮崎さんとスタジオジブリの設立に参画した。

「高畑さんは論理から下りてくる人、宮崎さんは感性から広がるような人で、タイプが違います。プロデューサーの鈴木敏夫さんの絶妙な調整力も合わさり、ジブリは快進撃を続けた」(映画評論家の白井佳夫さん)

 88年に「火垂るの墓」と同時上映されたのは宮崎さんの「となりのトトロ」だ。

「信頼関係があったからこそ、お互いが自在に領域を切り開き名作が生まれた。高畑さんは線の使い方など新たな試みにも挑んだ」(映画評論家の佐藤忠男さん)

「おもひでぽろぽろ」(91年)、「平成狸合戦ぽんぽこ」(94年)は、その年の邦画配給収入の1位を記録。「ホーホケキョ となりの山田くん」(99年)でも家族の描写が光った。

 美術史家の辻惟雄(のぶお)さんは振り返る。

「私が千葉市美術館の館長をしていた97年に突然訪ねてきたのです。高畑さんとは東大の駒場寮で1年間同部屋でした。私の方が先輩で、高畑さんは美術以外に音楽も好きでした。卒業以来の再会です。日本のアニメの原型は絵巻物にあると言われて、そうした発想はしたこともなかったので驚きました。研究熱心で、考えついたら確かめたいのですね。アニメと日本美術をテーマにした展覧会を一緒に開きませんかとの相談でした」

 99年には展覧会が実現した。約8年の歳月と50億円を投じた「かぐや姫の物語」(2013年)には絵巻物の手法も織り込まれ、映像美が世界で高く評価された。マイペースで完璧主義でも、仲間への感謝は忘れない。

 今年2月にも講演を行っていたが、4月5日、肺癌のため82歳で旅立った。

 一度流れが決まると破綻するまで止められず、誰も責任を取らない、と日本人の体質に危機感をいだいていた。心理描写に長けていた高畑さんの観察眼は鋭い。

週刊新潮 2018年4月19日号掲載

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