新海誠は宮崎駿になれるか 「君の名は。」が国民的な支持を受けたワケ

映画2018年1月3日掲載

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 2016年8月に公開され、大ヒットを記録した新海誠監督の長編アニメーション映画「君の名は。」が、2018年1月3日にテレビ朝日で地上派初放送される。

 国内興行収入250億円を突破した同作は、日本映画史上歴代2位という大記録を樹立。これを読んでいる多くの方が劇場に足を運んだであろう。

 ストーリーは単純だ。田舎暮らしの女子高生・三葉と東京在住の男子高生・瀧。出会うはずのない2人だったが、身体が入れ替わるという不思議な体験を通じ、いつしか惹かれ合うようになる――。

 監督、脚本を務めた新海誠は、それまでにもいくつかのアニメーション作品をこの世に送り出していたし、もちろん評価もされていた。しかし、「新海誠監督の作品が、これほどヒットするとはファンでも、いやファンこそ想像しなかったろう」と、SFやアニメに造詣が深い評論家の長山靖生氏は分析する。これほどまでのヒット作を生み出した新海監督の魅力とはなんなのだろうか。長山氏の解説をもとに見てみよう。(以下、「 」内『「ポスト宮崎駿」論』より抜粋、引用)

 今回の大ヒットで新海監督の名を知った人も多いが、初期の作品にすでに「君の名は。」に通じる要素が見られたことはよく指摘されるところだ。その一つが「君と僕」の物語、という構造である。

「新海作品は、最初から独特の雰囲気を醸し出していた。素人離れした完成度の高い絵に漂う、そこはかとない未完成感、あまりに繊細で、病的なまでに純粋な『君と僕』の物語に、後ろめたい気持ちを覚えながらも魅了されたファンは少なくないだろう」

 2002年に初の劇場公開作品となる「ほしのこえ」を発表。まさにこれこそが「君と僕」物語だった。

「中学を卒業するとすぐに適性試験に合格し、宇宙に旅立つことになる女の子ミカコと、地上に残った男の子ノボルの、ウラシマ効果を挟んで体感時間のずれにも阻害される究極の『遠距離恋愛』の物語だ。人類の存亡に関わるかもしれない戦いを背景にしながら、2人の愛の切なさだけが美しく描かれた作品は、当時『セカイ系』の代表格と目され、手作りの短編作品だったにもかかわらず、多くの評者によって論じられた。

『セカイ系』の定義はあいまいで論者により異なるが、おおむね「君と僕」の関係が作品のほとんどを占め、その2人の関係が世界の運命をも左右するような物語のことだ」

 その後、新海監督はいわゆる「君と僕」の作品を次々に発表。その中でトライアンドエラーを繰り返し、ついに「君の名は。」の公開を迎える。これまでの作品との違いは何だったのか。

「『君の名は。』には、新海作品では初めて若者だけでなく大人が、恋の主体である男女の親や祖母などが、しっかりと描かれている。国家や人類や宇宙や異世界といった『大きな(大きすぎる)物語』と『君と僕』のあいだに、親や友だちや世間といった広がりが、生き生きと姿を現した。

 私は宮崎駿を『愛』を描く人だと思っている。親子の愛や友情や男女のほのかな愛を描かせれば、宮崎駿はトップのアニメ作家だ。その一方、新海誠は『恋』を描くのに巧みだ。『恋』は周囲にすれば恥ずかしく、滑稽ですらあり、あまりに真っ直ぐだと大人はつい説教したくなるような情動である。宮崎も新海も、その逆はあまり手掛けてこなかった。自分の特質を理解し、得意技で勝負してきたのは正しい。だが新たな展開のためには、新海作品は『愛』の広がりを必要とした。恋なしでも社会は成立するが、愛の物語がなければ社会は描けない。

 若いファンにとって、新海作品はおそらく『自分たちの作品』だ。10代の太宰治ファンがそうであるように『なぜ僕(わたし)の気持ちが、こんなに分かるんだろう』という驚きと共に、彼らは作品に出会うのだろう。大人である私には、もちろんそうした感情移入はない。だからといって、心を揺り動かされないわけではない。こちらは『汚れっちまった悲しみに……』と中原中也な気分を噛み締めつつ見入ることになる。たぶん大人は、自分が既に失ったものが今もどこかでは持続していることを願いつつ、新海作品の時間を体験する」

 どこか既視感のある懐かしさと新鮮さが同居した新海作品。長山氏は「新海誠は『君の名は。』一作で、ポスト宮崎駿の『国民作家』になった感がある。だが、本物といえるかどうかは、まだ分からない。宮崎駿の凄さは、いくつかの異なるタイプの『物語』を生み出した点にある。『新しい物語』を複数提示できる作家が、真のレジェンドだ」と、新海監督の今後の作品に期待を寄せている。さて、地上派で初めて「君の名は。」を見る方は、そこに何を感じるだろうか。

デイリー新潮編集部