教団脱走、麻原を恐喝… 「異質のオウム死刑囚」の欲得と打算

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麻原より先には…

 遺族にとっては憎んでも憎み切れない相手であろう。

「彼は教団時代からどこかしら計算高い男でした」

 とは、オウムの「車両省大臣」だった、野田成人氏。

「面従腹背で、麻原の顔写真の入ったポスターを平然と尻に敷いて座っていたとか。また、弟子の囲い込みのようなこともしていました。だから3億円持って逃げたと聞いたときも驚かなかった。もっとも麻原の焦りようは酷くて、説法で“見つけ出したら袋叩きにしろ!”とハッパをかけていましたが……」

 95年の「自首」直前、彼にインタビューを繰り返したのが、ノンフィクションライターの武田頼政氏である。

「死刑確定前まで何度も面会しました。なぜ金を持ち逃げしたのか。なぜ恐喝まがいのことをしたのか。いろいろ聞いたのですが、岡崎は“持ち逃げじゃなくオウム崩壊後に備えて一時保管していただけ”“恐喝ではない。あんな額では済まない”という主張に終始していた。なぜ早く自首しなかったのか、と問うと“麻原から後で電話が来て、お前が何を言ってもこっちは否定するから信用されないぞ”と。妻や学習塾の子どものことを考えると出来なかった、とも。身勝手とも思える言い分に、接見室で言い合いになったこともありました」

 もちろんこうした姿勢は裁判でも糾弾された。

「本人は当初、自首したから極刑は免れると思っていたのです。しかし、そうはいかなかった」(同)

 一審判決では、〈人間性の欠如〉〈冷酷非道〉〈欲得と打算〉〈したたかさと狡猾さ〉等々、断罪されて死刑判決が下されている。

 確定は2005年。13人の中で最も早かった。

「岡崎は炭鉱労働者の家に生まれ、2歳になる前に養子に出されました。親に捨てられたという意識は根強く、似た境遇の麻原にほだされたのでしょう。確定第1号ですが、常々、麻原より先には執行されたくない、と言っていました」(同)

 現在の岡崎は、獄中で鶴や鯉などをモチーフに画を描き、死刑囚の絵画展の常連となっている。果たして、“父”の代わりは見つかったのだろうか。

(5)へつづく

週刊新潮 2018年4月5日号掲載

短期集中連載「13階段に足をかけた『オウム死刑囚』13人の罪と罰」より

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