お笑い芸人「サンキュータツオ」が語る「私が『広辞苑』の項目執筆を依頼されたワケ」

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最初の項目執筆は大失敗

 03年、タツオさんは早大大学院の文学研究科博士後期課程に入学する。「漫才における『フリ』『ボケ』『ツッコミ』のダイナミズム」(06年/「早稲田大学文学研究科紀要」50-3)といった論文を発表するなど、若手の研究者として頭角を現していく。

 すると中村教授が『日本語 文章・文体・表現辞典』(朝倉書店)の編纂を務めることになった。タツオさんは「話芸」の項目を執筆することが決まる。

「06年に中村先生が早大を定年となり、野村雅昭教授に指導していただくことになりました。野村先生は漢字研究の第一人者ですが、落語の研究家としても知られています。実は野村先生が『話芸』の項目を執筆されるはずだったのです。ところが小学館の辞典に携わられることになり、僕が代打に指名されました。プレッシャーは強烈で、執筆は遅れに遅れました。08年頃が原稿の締切だったはずですが、入稿は10年。めちゃくちゃ怒られましたね(笑)」

 ショックは大きく「辞書は読むに限る」と自分を慰めていたが、運命は動き出す。98年に結成し01年にプロとしてデビューした漫才コンビ「米粒写経」の知名度が、次第に上がっていく。そしてタツオさんは11年、TBSラジオの「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」にゲスト出演を打診される。構成作家と「何をトークのテーマにするか?」について話し合いを持ち、何案か出した中で「国語辞典」が採用された。

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