没後50年「チェ・ゲバラ」と革命戦に散った日系人ゲリラの壮絶人生

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ゲバラとの運命的な出会い

 フレディ前村は、アマゾニアのベニ州州都トゥリニダーで1941年10月18日に生まれている。父親の前村純吉は20歳だった13年に、ペルーへ移住したが、20年代にアンデス山脈を徒歩で越え、天然ゴム景気に沸いていたボリビアのアマゾニアに入った。

 行商で資金を蓄えトゥリニダーに雑貨店などを開いて成功した純吉は、スペイン系ボリビア人女性ローサ・ウルタードと結婚。長女マリー、二男フレディら3男2女が生まれた。地元では目立って裕福な家庭だった。

「フレディは、貧しい人々が医者にかかれない冷酷な現実を幼年時代に悟り、医者ごっこで必ず医師を演じ、恵まれない人々に無料で医術を施すと言っていました。父親から律儀、一徹、勤勉、責任感など日本人の特性を一番受け継いだのがフレディで、社会の不公正を憎む正義派になり、中等学校時代に共産党青年部員として活動していました」

 こう語るのは、フレディの姉で『革命の侍』の著者マリー前村。共著者で息子のエクトルと共に2009年来日した際、じっくり話を聴く機会があった。

「フレディは成績優秀で、ラパスの大学医学部を志していました。ところが共産党青年部に入っていたことが災いし入学の道を絶たれてしまい、打開の道を探っていたんです。そんなとき光明が差した。革命から3年余り経っていたキューバが医学留学生を募集し、フレディは志願し合格して1962年4月、ハバナに行くことになりました」

 当時、キューバの首相だったフィデル・カストロ(1926〜2016)が国立ハバナ大学付属校として創設した「ヒロン浜勝利医学校」の第1期生として、フレディは入学することになる。その年(62年)10月には、米ソ両大国が核戦争の瀬戸際まで進んだキューバ危機が勃発。フレディは留学生仲間と共に志願民兵として対空砲部隊に配属された。この場面も映画「エルネスト」に生々しく描かれている。

 危機は収束したが、東西冷戦の最前線に身を置く決死の体験を積んだフレディは、「無私と愛他主義で革命に積極的に参加する〈新しい人間〉」の考えに次第に傾倒してゆく。「新しい人間」――これぞ、ゲバラが希求した革命家の理想像だった。医学留学生の中で成績トップのフレディは授業で教授の助手を務めていたが、63年の正月休暇を、憧れのゲバラと過ごした後、革命家の道を志すことになる。

 この頃、30代半ばに達していたゲバラは、体力的にゲリラ戦に耐えられるのは数年しかないと踏んでいた。そうなると、ボリビア遠征計画は急ぐしかない。そんな時、同志として理想とする「新しい人間」の典型のような医学生、フレディ前村が眼前に現れたのである。かつて自らも青年医師だったゲバラは、自分の分身を見たような思いに駆られていたことだろう。ゲバラがフレディを特に日系人と意識していた様子はなく、フレディも自分はゲバラと同じラテンアメリカ人だと自覚していた。だからこそ、2人は革命の同志になり得たのだ。

 また、ゲリラ部隊に医師は欠かせない。志操堅固なフレディこそ、祖国ボリビアで革命戦争を戦うべき適任者だった。ゲバラは躊躇せずフレディを遠征部隊に組み入れ、自分の名「エルネスト」と「エル・メディコ(医師)」の2つをゲリラ名としてフレディに贈った。「医師」の呼び名は、医師免許をもらうことなく医師補としてボリビアに赴かねばならないフレディへのオマージュでもあった。(敬称略)

(下)へつづく

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伊高浩昭(いだか・ひろあき)
1943年生まれ。ジャーナリスト。元共同通信記者。著書に『チェ・ゲバラ―旅、キューバ革命、ボリビア』(中公新書)など、『キューバと米国』(LATINA)が来春刊。

週刊新潮 2017年12月28日号掲載

特別読物「映画『エルネスト』で脚光! 没後50年『チェ・ゲバラ』と革命戦に散った日系人の壮絶人生――伊高浩昭(ジャーナリスト)」より

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