底なしの承認欲求地獄! 「繊細チンピラ」がネットに跋扈するワケ

国内 社会 新潮45 2017年11月号掲載

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底なしの承認地獄

 トフラー(未来学者のアルビン・トフラー)など、ネット時代を予見していた人たちにも意外だったらしいのが、ネットの使用目的で最も盛んになったのが、世間に有用な情報の伝達ではなく、世間的にはどうでもいい自分語りであった、ということであった。要するにブログの流行である。そこにあるのは、大して世間的重要性のない人物(こういう言い方をすると傷つく繊細な人物もいるかと思われるが)の、大してドラマチックでもない日常や思考の流れを、ただ記録した日記であるが、これが爆発的に数を増やしていった。

 それまで、出版という手間も金もかかる手段を取ることのできる特別な人物しか世間にアピールできなかった自分の考え、自分とはいかなる行動・思考をする人物であるか、ということが、ネットの出現で、誰にでも、どんな平凡な人間であっても、自由に世間に発信できるようになったのである。人間という生物が、自分の存在を世間に知らしめたいという根源的な欲求を持っていることが、それが可能になるツールの出現で、一気に顕在化した感があった。そして、自分を認めてもらいたい(自分の存在の他者に比べての優越性を誇示したい)ということがその欲求の根幹にあるのであれば、日常の範疇における、ちょっとした自慢の描写がそういう日記にあふれるのは、当然と言える。コレクション自慢や、有名人との交友を示すツーショット、旅行先などでの食の感想(を記せる自分の今の地位自慢)などがいまだに、ブログの記事の多くを占めている。

 だが、この欲求が“自分たちの今の身分がバイトなどというあまり他人に優越できていない人間たち”に、ナマの形で広まったとき、それは“ただ目立てばよい”という行動になる。一時大流行した“バカッター”という行為(ツイッターへの投稿を通して、飲食店での不潔行為など自らの反社会的行動を世間に曝け出す行為)など、その典型例だろう。これらはゆがんだ自己承認欲求、褒めてもらえないのならば、むしろ神経に障る行動で、とにかく他者の意識の中に自分の記憶をとどめて欲しい、という思考による行為である。思春期前の男の子が、女の子にわざと意地悪なちょっかいを出す、あの行為に類似していると言っていい。オスカー・ワイルドのいう、

「うわさになるより悪いことは、うわさにもならないことだけだ」

 という言葉を地で行っているわけだ。

 そして、およそ全ての人間にこの本能があるのであれば、自分以外の、そして自分より恵まれた人間の書くことは、すべて他者にはやっかみの対象、自分より目立ち、その目立つことをアピールしている、憎しみの対象になるのも理の当然と言えよう。繊細チンピラたちは他者の文章や写真のわずかな部分からその自慢の匂いを嗅ぎ付け、繊細な、傷つきやすい神経という武器を振りかざし、これを攻撃する。

 自分が“世界でたったひとつの花”であると教えられた人間たちは、自分以外の人間が美しい花としてちやほやされることに耐えられない。自分が上に行けないのなら、せめて上にいるものを引きずり降ろしたいという欲望にかられてやまない。自己の欲求を満たすことこそ幸福、という教育によって、ネット世代、ツイッター世代は底なしの承認地獄、他者の自己承認を否定し続けなくてはいられないチンピラの陥る地獄の炎の中でもだえているのである。

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 全文は「新潮45」11月号に掲載。

唐沢俊一(からさわ・しゅんいち) 劇作家・評論家。1958年、札幌生まれ。大学在学中よりアニメ評論を手がけ、その後、芸能プロダクション代表、コラムニストとして活動。「と学会」創設メンバー。「トリビアの泉」ではスーパーバイザーを務めた。

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