地上げの帝王と19歳少女の信じがたい純愛…「早坂太吉」最上恒産会長

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■「好きだったんです」

 早坂はとりわけ、A子に夢中になった。先の最上恒産関係者は言う。

「会長は、女のことではハチャメチャ。A子をどこにでも連れて行った。61年夏に、会長が奥さんと娘さんと一緒に新潟競馬場に行った時、A子を連れて行ったんです。そこからだと思います。奥さんは、A子がいると会長の機嫌がいいので、誘うように娘に言っていたようです」

 63年、早坂とA子は男女の仲になる。

 どこから見ても“街の不動産屋”のオヤジにしか見えない、風采の上がらない中年男の早坂が、モデル並みの美しさと抜群のプロポーションを持つ、19歳の若い女性に、なぜ相手にしてもらえたのか。50歳と19歳の年の差カップル。金目当ての「愛人稼業」と見なした方が、おそらく誰もが納得する。が、そうではないことが、先の関係者の証言から浮上する。

「A子がこう言ったんです。『早坂さんはなんか、愛嬌がある。かわいい』って。気づいたら、そうなっていたと。会長が女に事欠かないのは、『お金の魅力だけじゃないと思う』と」

 ズーズー弁で、田舎者丸出しの五十男のどこに魅力があったのだろうか。

 社名に「最上」を冠するように、早坂は山形の出だ。10年、最上川水運の要衝、北村山郡大石田町に6人兄姉の末っ子として生まれた。小学5年の時に国鉄職員だった父を、中学1年で母を亡くし、20歳以上年の離れた兄夫婦が親代わりとなった。兄は「早坂工務店」を経営する大工で、早坂は中学卒業後3年間、大工見習いとして兄の下で働いた後、18歳で上京。

 上京から2年後の30年、早坂は資金援助を受け、練馬で「早坂建設」を開業し、建て売り住宅の建設と販売を手がける。マイホームブームに乗り順調に推移するが、36年に建築基準法違反で強制退去命令を受けて頓挫。以降、さまざまな商売に手を出すも自転車操業。手形の決済に追われ、街金融や暴力団金融の間を走り回る日々を送る。

「最上恒産」を興したのが、54年。翌年、本社を南青山に移転する。以降、最上恒産は猛烈な勢いで土地買収を展開し、58年頃から急成長を始める。最上グループは61年の全盛期には、最上恒産を中核にして17社を傘下におさめ、ホテル11軒、ゴルフ場2コース、2つの病院などを所有。61年の総資産は、1000億円とも言われた。

 先の関係者によれば、早坂は「事業は、バクチだ」と豪語し、馬を買い漁るのと同じように、土地やホテルを次から次に手に入れて行ったという。そんな最上恒産が急成長する過程で、見え隠れするのが事件屋、暴力団幹部、金融フィクサーなどの“黒い人脈”だ。

 61年2月には、世田谷区砧(きぬた)に新築した早坂の豪邸に、銃弾が撃ち込まれるというきな臭い事件も起きている。関係者によればこの時、早坂はマスコミに言い放った。

「俺たち中小企業は、大手不動産とまともに勝負したら、商売にならない。暴力団などが絡んだ複雑な土地に手を出し、整理することに生きる道があるんだ」

 最上恒産の地上げを一貫して支えたのが、早坂が「俺の銀行」と公言した、第一相互銀行だ。刎頸(ふんけい)の交わりとまで言われた社長の小林千弘は法定限度額を超える過剰融資を、最上グループにたびたび実施。この第一相銀との太いパイプのおかげで、最上グループに潤沢な資金が途切れることなく流れ込んでくる構図ができていた。

 無尽蔵に金はあった。巨額の富があればこそ、カマキリママとの“結納”に13億円をポンと出した。一方、A子にはそのようなカネの遣い方をしなかった。A子は、「ショパールの時計」以外、ママが享受したような「恩恵」を受けていない。早坂がA子に与えたのは、原宿にある1LDKの賃貸マンション。外食をしたり、派手に遊び回るわけでもなく、マンションで二人、食事をしてくつろぐだけ。先の関係者は言う。

「A子が料理を作っていたようです。会長は山形の人だから、米が大事。A子に『みそ汁とごはんだけでいい』って作らせていました」

 宿泊するホテルの部屋には、炊飯ジャーが置かれ、早坂は取材に来た記者に、「みそ汁と納豆、食ってけよ」とよく声をかけた。

 A子は他の愛人たちとは違った。

「あれが欲しい、これを買ってというのがなかったと聞いています。会長もカネの関係ではないと言っていました。実際、A子からこう聞いています。『だって、恋愛だもん。私のことだけは悪く言わないって、早坂さん、言っていた』と」(先の関係者)

 たった半年の蜜月。別れを切り出したのは、A子だ。早坂の過剰な束縛を嫌ってのことだった。

 A子とつきあっていた63年、早坂は凋落の一途を辿っていた。62年12月、西新宿の地上げをめぐって国土利用法違反で書類送検、宅建免許は取り消され、翌63年12月に懲役6月、執行猶予3年の判決が下りる。同時期にママから、750億円の財産分与を求める調停を申し立てられる(平成2年、7億円で和解)。

 平成5年、バブルが崩壊したと言われる年に、最上恒産を受けついだ「エム・ジー・エムエンタープライズ」は2回の不渡りを出して倒産。平成10年には自己破産宣告。その後も女には事欠かず、3度の結婚を繰り返すも、平成13年に脳梗塞で倒れ、脳死状態になるや、もはや女は見向きもしない。

 関係を持った数多の女で、後の早坂を気にかけていたのはA子だけかもしれない。先の関係者はA子が見舞いに行こうかどうか、迷っていたことを覚えている。

「『私、好きだったんです』って、はっきり言いました」

 平成18年1月、早坂は逝った。享年70。五十男が純愛に溺れた儚い「夢」が、あの世へのせめてもの道連れだったのだろうか。

ワイド特集「時代を食らった俗世の『帝王』『女帝』『天皇』」より

週刊新潮 3000号記念別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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