共産党のカリスマ「宮本顕治」の偶像 リンチ査問事件のアキレス腱

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宮本顕治

「僕ら共産党員にとっては神さま、雲上人。カリスマであって、絶対的権威。眼光鋭く、風圧を感じる政治家だった。晩年は蝋人形のようになったけれど。引退する数年前は会議でも、いるだけ。笑顔もなければ、表情もほとんど変わらない」

 元日本共産党員で、中央委員会常任幹部会委員を務めた筆坂秀世は、宮本顕治をこう振り返る。

 宮本顕治――。昭和33年(1958)に書記長に就任以来、議長引退までの40年間、党のトップの座に居続けた、日本共産党の指導者だ。通称、ミヤケン。

 明治41年(1908)、現在の山口県光市にて肥料米穀商の長男に生まれ、愛媛県の旧制松山高等学校から東京帝大経済学部に入学。在学中、雑誌「改造」の懸賞論文に「『敗北』の文学」と題した芥川龍之介論を応募し、第一席を射止め、文芸評論家として世に出た。大学卒業後の昭和6年、共産党に入党。翌年、作家の中条百合子と結婚。治安維持法により幹部の検挙が相次ぐ中、入党2年後には中央委員に昇格するも逮捕され、戦後、GHQの指令で解放されるまで12年間の獄中生活を送る。しかも完全黙秘、非転向を貫いた。筆坂は言う。

「残酷な拷問を受けても転向しない。これは誰にも真似できない。彼に立ち向かえる人なんていなかった」

 一方、日本共産党中央委員会に勤務していた、古参の元党員は別の見方をする。

「巣鴨の拘置所にいる時も百合子さんは、宮本がお腹をこわしたと聞けば仕出し屋から粥を届けさせ、食べ物だけではなく、らくだのシャツやふかふかの毛布など一杯、差し入れした」

 無期懲役の刑が決まり網走刑務所に服役したのは、20年6月、クサい飯を食ったのは3カ月かそこら。宮本は獄中生活の大半を、妻・宮本百合子の献身的かつ潤沢な、物心両面での支えの下で過ごしていた。その支えを、後に踏みにじることができる人間でもあった。先の元党員は言う。

「許せないのは戦後、百合子さんの秘書と関係ができたこと。百合子さんは髪を振り乱して、『顕治さんはどこ行った?』と探していた。百合子さんの印税も入るし、実家の資産と名声と、百合子さんを踏み台としてずいぶん利用したと思う」

 宮本が権力を掌握できたのは「獄中12年」のステータスだけでなく、熾烈な権力闘争の末のこと。筆坂には改めて思うことがある。

「共産党は、自分たちの歴史は立派だと天まで持ち上げるが、徳田球一、野坂参三、志賀義雄、中野重治など錚々たる共産党幹部が今はみんな、ダメだと否定されている。戦後、指導者として評価を得ているのは、宮本顕治だけ。立派なのは宮本さんだけで、あとはゴミみたいなものが作った政党なのかよって」

 政敵を除名処分などで粛清することにより、宮本は党の独裁者となった。しかしその姿は、清貧を旨とする共産党員とはかけ離れていた。先の元党員は、こんな姿を鮮明に記憶している。

「何でも一流のもの、ブランドが大好き。背広は英國屋でネクタイはフランス、靴はイタリアのブランドで。鰻重が大好物で、それも銀座の有名料亭のものと決まっていた。新聞は朝日新聞、テレビはNHK。党のトップは常に東大卒、不破さんも志位さんもそう」

 数年に1度の党大会で振る舞われる料理にも、“ヒエラルキー”をつけた。

「コックは元帝国ホテルのシェフでしたが、嘆いていた。『組織内の身分の違いでメニュー内容が変わるのは日本共産党だけ』と」(同)

■引導を渡されて発した言葉

 宮本の人生に最も大きな影響を与えたもの、それが例の事件だと先の元党員は語る。

「人を殺したということは、ミヤケンに大きな影を落としていると思う」

「日本共産党スパイ査問事件」、これこそ宮本にとって最大のアキレス腱だ。8年、共産党中央委員だった宮本や袴田里見らが、小畑達夫ら2人の中央委員をスパイ容疑で監禁査問し、小畑を死に至らしめ、死体を遺棄したとされる。

 19年、東京地裁は殺意を否定したものの、小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であると判断した。宮本や袴田は治安維持法違反という思想犯としてだけでなく、刑事犯として不法監禁、傷害致死、死体遺棄の罪に問われ、有罪に。刑事犯である以上、「転向」しようにもしようがない。うかつにしゃべれば、重刑になる。これが「完全黙秘・非転向」の内実だったのではないか。

 49年、民社党の春日一幸が新聞の取材に対し、この事件を取り上げ、51年には立花隆が『日本共産党の研究』で、事件の判決文を掲載。委員長の宮本と副委員長の袴田が被告となった戦前の事件は、亡霊のように共産党にのしかかり、この年の総選挙で議席を大幅に減らすこととなった。

 小畑の死に関して宮本はじめ日本共産党は、小畑の特異体質によるショック死であると、暴行の事実を否定している。先の元党員は言う。

「彼はいつもあの事件について疑われていると、疑心暗鬼になっていた。だからその人間が自分に心底、忠誠を誓っていると確かめないと信用しない、一種の政治的自閉症に陥っていた。イエスマンの側近を周りに置いて防護壁を作り、それを通してしか人に会いもしないし、話もしない」

 宮本が固めたこの組織体制が、「民主集中制」だ。筆坂が説明する。

「宮本さんが作ったというより、レーニンの考え。これは暴力革命を遂行するための、上から作る組織形態です。頭=幹部さえしっかりしていれば、大衆的なところは何とでもなると。だから最初から、組織は、幹部を崇めるようにできている。独裁者が贅沢をするのも、共産党の場合、合理的に説明ができる。指導者を大事にするという理由があるから。宮本さん、党大会で『余人をもって代え難し』とまで言われたよ」

 宮本から党を受け継いだ不破哲三は「ソフト化路線」を打ち出したが、民主集中制という組織体制は今も変わっていない。筆坂はこう指摘する。

「下からの論争はなく、すべて上意下達。共産党には縦の関係しかない。だから党員を長くやっていると、考える習慣がなくなる。代々木の党幹部から言われたことを、疑問を持たずにやるだけだから。共産党員の基本は、自己犠牲。上に忠誠を尽くす。僕ら共産党員にとって、宮本さんは鑑(かがみ)なの。12年も獄中で頑張り、戦後の路線を作り上げ、毛沢東ともけんかして……」

 筆坂が感じていたように、宮本崇拝を支えていたのは、その経歴から浮かび上がる「無謬性」だ。

 先の元党員は議員秘書時代、宮本に国会の廊下で「おはようございます」と挨拶をしただけで、側近から叱られたという。

「馴れ馴れしいと。宮本議長を自分と対等な人間として扱っていると、ものすごく怒られた。まさに、偶像。神さまのような存在。宮本顕治にはひれ伏さないといけない。拝跪(はいき)しない人間は一人、また一人と党を追われていった。ずっと宮本にくっついていた袴田も、最後は野坂さんも排除された」

 袴田除名は52年。リンチ査問事件に関して党や宮本を週刊誌などで批判し、「規律違反」を犯したというのが理由だ。野坂はソ連のスパイだったとして平成4年に除名、百歳という高齢でのことだった。筆坂は言う。

「野坂は衆議院議員、参議院議員と常に日の当たる道を歩んできた。『愛される共産党』も野坂が作ったスローガン。野坂は共産党の『明』を、宮本は『暗』を象徴していました。このことに、宮本は苛立ちを持っていたのかもしれません」

 その除名の場に、筆坂は同席していた。野坂は車いすで出席し、除名の理由が読み上げられた後に、言うベきことがあるかと問われた。

「野坂さん、長州の出身だったから『ありましぇん』と言って、そのまま退席した。除名は全会一致で決議され、その後、宮本さんが除名の理由以外に野坂の悪行を話し始めた」(同)

 話は遥か昔、昭和25年、公職追放で野坂、徳田らが地下へ潜った時に及ぶ。

「宮本さんが『これからどうするんだ?』と聞いたら、野坂は『この夏はアイスキャンデーを売って過ごせばいい』と言ったと。野坂がどんなにひどい男だったかを悪辣に言うわけ。俺、それはないだろうって強く思った。なぜ、そんな男を長い間、議長に据え、引退後は名誉議長にまでしたんだよと。したのは、あんただろって。男らしくないわけ。男なら、黙ってろよと」(同)

 宮本は88歳まで、「議長」の座に居座った。不破が引導を渡した際のやりとりを、筆坂は不破から直接、聞いている。

「『議長、そろそろ身を引いてください』と不破さんが言ったら、宮本さん、こう言ったって」

――君、僕は何か、間違いを犯したかね。

「それを聞いた時、宮本さんに人間味を感じたよ。最後まで自分の地位に、恋々としがみつこうとする。なんだ、宮本さんも普通の人間かよって。議長を下りた瞬間から誰も相手にしない。影響力はゼロになった」

 偶像はその地位を失った途端、ただの老人となった。戦後の日本共産党を体現するカリスマは、「裸の王様」だったのか。平成19年、宮本は老衰により死亡。享年98。心から惜別の情を持つ者が、果たしてどれだけいたのだろう。

ワイド特集「時代を食らった俗世の『帝王』『女帝』『天皇』」より

週刊新潮 3000号記念別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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