三越の女帝「竹久みち」 寝物語でショーケース1台からの成りあがり

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■「寝物語」と「水商売の天分」

 共立女子専門学校(現共立女子大)を卒業した後、文化学院デザイン科で学び、宝飾業界で身を立てようとした竹久。彼女が岡田と知り合ったのは、34年のことだった。当時、映画「ソロモンとシバの女王」がヒットしており、三越ではそれに関連した展示会を開催。竹久は、宣伝部長としてそのイベントを仕切っていた岡田に、知人の三越社員を通じて接近を図った。三越の元幹部が語る。

「常にアンテナを張り巡らせ、時代の呼吸を読むのが得意だった岡田と、宝飾業界の情報通だった竹久は妙にウマがあった。彼女は岡田と親しく付き合ううち、“この人こそ、将来の社長になる”と確信したようです」

 やがて、2人は肉体関係を持つ。竹久は、岡田が奮い立つように甘言を弄した。

「あなたは絶対、三越の社長になれる人よ」

 竹久の読みは的中した。岡田は43年、銀座三越店長に就任。翌年、常務、本店長へと昇進した。そして46年に専務となり、その翌年にはついに念願の社長の座に昇り詰めたのだ。

 この出世と軌を一にするように、出入り業者の身でありながら、竹久は三越内で着々と自身の勢力を伸ばしていく。最初は本店1階の売り場にアクセサリーのケースを1台だけ置かせてもらっていた。それが、岡田の威光をバックに売り場面積を増やし、彼女の“テリトリー”は他の支店にも広がっていったのである。

「彼女は、社員の対応が気に入らないと、すぐに岡田さんに告げ口する。2人がただならぬ関係にあることは社内で公然の秘密になっていましたから、幹部も含め、社員は竹久に睨まれるのを怖れるようになり、不承不承、言うことを聞くようになりました。竹久は、寝物語で岡田さんに事業プランや社員の評価を語るようになり、三越の重要な事業計画や人事にまで介入するようになっていた。実際、嫌われた社員が左遷されるなどの憂き目に遭っていたのです。いつしか彼女は、三越内で“女帝”と呼ばれるようになりました」(先の元幹部)

“三越の女帝”の銭ゲバぶりは凄まじく、

「三越に並ぶブランド品の70%が、竹久の経営する『オリエント交易』や『アクセサリーたけひさ』などを通じて入ってくるようになり、仲介手数料が支払われていた。彼女は、オリエント交易では仕入れ値の15%、アクセサリーたけひさでは10%の口銭を取っていたのです。しかも納入商品について、“返品されても困る”と、すべて買い取りを強要。そのため、三越の倉庫は在庫の山でした」(同)

 三越で財を成した竹久は副業にも乗り出した。豪華なシャンデリアの照明にバカラのグラスが映える煌びやかな空間。奥の間から、ハデで奇抜なドレスをまとった彼女が登場すると、オープン・パーティーに招かれた参加者らの視線は一斉にそちらに注がれた。その場にいるのは、西武デパートの堤清二などの財界人や、デヴィ夫人ら芸能界のVIPたち。竹久は、六本木に自社ビルを構えるまでになり、その一角にクラブ「クレオパトラ」をオープンした。常連だった外交評論家の加瀬英明氏が言う。

「竹久は、水商売には天性の素質があると思いましたね。森英恵のようなデザイナーという雰囲気はなかったが、人と人を結びつけるのがうまかった。フィクサーのような雰囲気があり、想像を逞しくすると、一代で商社をつくれるようなオーラがあった。彼女は企業にコンプライアンス無き時代の女帝だったと思うね」

 もっとも、彼女が肥え太っていく一方で、老舗百貨店の経営状況は悪化。56年度末には店頭価格にすると、1150億円もの在庫を抱えていたという。

 しかし57年の株主総会を切り抜け、安心した岡田と竹久は5月、「華麗なるエーゲ海クルージングとヨーロッパ周遊の旅」に出掛けた。千人近い三越関係者と納入業者も参加させられた。

「高級クルーザー『ステラソラリス号』の最上階のデッキのデラックススイートの船室は既に予約済でしたが、竹久は“最上階からの最高の眺めをほしいままにするのは自分だ”と、予約していたツアー参加者にキャンセルするよう強く要求した。もちろん断られていましたがね。栄華を象徴する大名旅行でしたが、その裏で、三越は、経常利益が最盛期の50%近くも落ち込むなど、目を覆うばかりの業績悪化に陥っていたのです。取締役の中には岡田ワンマン体制に危機感を募らせる者が増えていた」(事情通)

 常務取締役、経理本部長や仕入れ本部長が「岡田退陣」を計画。同調する幹部は徐々に増え、最終的には杉田専務も加わり、ついに同年9月22日の“岡田解任劇”という波乱の展開となったわけだ。

 帝王と女帝が一部上場の老舗百貨店に大損害を与えた三越事件。竹久は岡田による利益供与で、実に13億円もの資産を築き上げたとされる。岡田は特別背任罪に問われ、竹久も54~56年に約1億6000万円を脱税したとして、特別背任と脱税の容疑で逮捕された。岡田は平成5年、東京高裁で懲役3年の実刑判決を下され、上告するも係争中に、腎不全のため死去(享年80)。竹久は平成9年、最高裁で懲役2年6月、罰金6000万円が確定した。訴追後、気力の失せた岡田に対し、竹久は刑に服した後も「私は潔白」と主張。持ち前の厚顔ぶりを発揮した。しかしその彼女も平成21年、動脈瘤がもとで逝去。79歳だった。

ワイド特集「時代を食らった俗世の『帝王』『女帝』『天皇』」より

週刊新潮 3000号記念別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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