35時間に及ぶ学生と機動隊の攻防…東大に炎が上がった「安田講堂事件」

社会週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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 全共闘運動、そして全ての学園紛争の“天王山”として記憶される「東大安田講堂事件」――。

 その火種となった東大紛争は、“登録医制度”に反対する医学部の学生たちが、無期限ストに及んだことに端を発する。

 これに対して大学側は強硬な姿勢に徹し、医局員と揉めた学生17人に退学を含む厳しい処分を下した。後に、そのうち1人の学生に誤認処分の可能性が強まるが、大学当局は処分の撤回に応じなかった。

 業を煮やした学生たちは昭和43年(1968)7月2日、安田講堂のバリケード封鎖を敢行。その3日後には、当時26歳だった理学部の院生・山本義隆氏(73)を議長に据えて、“東大全共闘”が立ち上がるのだ。 

 加藤一郎・東大総長代行は、ついに安田講堂のバリケード撤去を警視庁に要請。翌44年1月18日の夜明けとともに、決戦の火蓋が切られたのである。

「GQ Japan」編集長の鈴木正文氏(66)はその頃、慶応大学の社学同(社会主義学生同盟)の代表を務め、東大紛争の“最後の砦”に潜り込んでいた。

「安田講堂に入る前に、正門前のタバコ屋でエコーを買ったのを覚えています。一番好きなのはショートピースでしたが、手持ちが200円しかなかった。帰りの電車賃を考えて安いタバコにしたんですけど、それが不味くてね……」

 鈴木氏が配置されたのは5階のバルコニーだった。

「機動隊のヘリコプターから催涙液がばら撒かれると、パッと傘を差して防ぐんです。でも、周囲の建物が次々と機動隊に制圧されたせいで、今度は真横から放水が直撃するようになった。傘なんてすぐに御猪口ですよ。催涙弾もひっきりなしに飛んでくるから、楯代わりの木材で受け止めて、必死で投げ返しました」

 東大本郷キャンパスに突入した機動隊員は8500人に上る。安田講堂に立て籠もった400人程度の学生らが多勢に無勢なのは、誰の目にも明らかだった。しかし、警察側は意外にも大いに苦戦を強いられる。

 警視庁の警備一課長として、城攻めの指揮を執った佐々淳行氏が内情を明かす。

「学生たちは講堂内でも構わず、重油が入ったドラム缶に火をつけて放り投げてきた。火炎瓶どころの騒ぎじゃないよ。まるでナイアガラの滝のように燃え盛る炎が、機動隊員を襲ったんです。いま思えば、彼らは“戦争”をしている感覚だった。講堂から負傷した学生が運び出された時は、“ジュネーブ条約に基づく戦時捕虜として扱え”と念を押されましたから」

 こんな誤算もあった。安田講堂には、各都道府県警の倉庫から集めた1万発の催涙弾が撃ち込まれたが、

「長らく使われていなかったせいで5発に1発は不発弾。遅発も多く、学生に投げ返されてから爆発するんだ。さらに、我々には“ニトログリセリン”への恐怖がありました。結局、使われた形跡はないんですが、山本議長は“ニトロについては肯定も否定もしない”と話していた。試験管に入れて投下されたら、どれほどの人命が犠牲になるか想像もつかない。実際、“ニトロ入り、触るな”と書かれた瓶が講堂のあちこちに置かれていました」(同)

すべての学園紛争の“天王山”として記憶される「東大安田講堂事件」(写真は現在の安田講堂)

■バリケードが破られた!

 結果、学生たちは激しい攻防戦を凌ぎ切り、決着は翌日へと持ち越される。

 とはいえ、籠城する彼らに、束の間の“勝利”を祝う余裕などなかった。

 先の鈴木氏によれば、

「夜中の12時頃に交代で寝ようという話になって、誰かが布団を持って来た。ところが、床に敷いた布団がフワッと浮かぶんだ。放水のせいで15センチほど浸水していたんですね。さすがに、喉が渇いて水を探していたら、ポリタンクが並んでいる。コップに入れて飲み干した後で、火炎瓶に詰める灯油だと気付きました。催涙ガスで鼻がイカれて、臭いも分からなかった」

 この日の最低気温は0・1度。びしょ濡れとなった衣服を乾かす間もなく、籠城する学生たちは真冬の寒さに凍えながら夜を明かした。そして、翌19日午前6時過ぎ、機動隊による攻城作戦が再開される。

 講堂の3階では、旧社会党で衆院議員を務めた、弁護士の松原脩雄氏(70)が奮闘していた。東大全共闘の元闘士である。

「午前中のうちに、“バリケードが破られた!”という伝令が講堂内を駆け巡りました。東大全共闘の行動隊長は、“抵抗しないでホールに集まれ!”と指示した。残っていたメンバーは、ほとんどがホールの客席に集まったと思います。すぐにお互いの肩を組んで『インターナショナル』の大合唱になってね。何回も何回も繰り返し歌いました」

 35時間に及ぶ攻防の末、“安田砦”はついに落城の時を迎える。

「講堂から連行される時には、踊り場で公安が“首実検”をするんです。慶応から助っ人に来た僕は、“てめぇ、外人じゃねえか!”と怒鳴られて、顔面をぶん殴られました」(鈴木氏)

 375人に達した逮捕者には、政財界の大物の子弟、警察幹部の親族まで含まれていた。

 佐々氏が嘆息するには、

「各隊に、検挙した“二世”の名前を報告させたほどでした。そうして逮捕された学生たちのなかには、現在、政財界で地位を確立している人物も少なくない。地方の商工会議所に招かれて講演すると、“懐かしいですね。あの頃は石を投げるほうでした”と臆面もなく話し掛けてくる。それじゃ、あの“戦争”は何だったのか。全共闘世代がきちんと総括しているとは思えません」

 東大全共闘を率いた山本氏に取材を申し込むと、直筆の返信があった。

「小生、マスコミからのインタヴュー等の依頼は原則として全てお断りすることにしております」

 東大を戦火に包んだ学生運動の“最終決戦”から、半世紀が経とうとしている。

特集「伝説となった『全学連』『全共闘』ハイライト」より